ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2007年04月17日
 新現実 vol.4 (4)

 太田出版に移った『新現実』VOL.4は、ざっくりと読んだ感じ、以前にも増して政治的であろうとしているのかな、といったところで、個人的には、人は何かしらかのイデオロギーをともなわないと生きていけないにしても、筋金入りの恋愛至上主義者なので右も左も結構です、お引き取り下さい、といったタイプだから、このシリアスさをちゃんと理解できているのかどうかは自信がなくて、ひとまず編集日記で大塚英志が角川の新雑誌(『コミックチャージ』だよね)について悪口いっているのを、下卑た調子でおもしろがる。二線級って、いやまあ。ところで、その角川の新雑誌の、某マンガの一話目でさあ、江藤淳がどうのこうの、とあったのを大塚は読んだだろうか、と、そういうあたりが気になってしまう。さて、ここからが本題である。たとえば「「ヲタ」が「サヨク」化するか」という文章と「サブカルチャーのファシズム起源」という文章を読むと、大塚の抱えている問題意識は、中塚圭骸との対談のなかにある〈サブカルチャーの非政治的なやっかいなところ〉〈つまりサブカルチャー的なものっていうのはさ、結局、政治性みたいなものをすごく暴力的に飛び越えちゃうのね〉といった言葉に集約されている、と思われる。以前から繰り返し主張されていることでもあるが、その、今日この国においてサブ・カルチャーの非政治性がどのように厄介なのかは、大塚に上野俊哉、トマス・ラマール、トム・ルーザーによる座談会「世界の中の、戦時下のおたく」で、多角的に検討され、そこで大塚は〈なんでおたくがファシスト化したかっていうと今の日本の中だけ見てみても説明できないわけじゃない。本来、非政治的だった彼らの言動が何で右傾化するのかわからないけれども、そこでぼくはおたくのファシズム起源という仮説を立てたわけで、まさにその、おたく文化というのはテクノロジーに対する礼賛で、アニメに関してもテクノロジーに関する美意識みたいなものが非常に発達していて〉といっている。この言葉は、あれはどこだったか(未確認だけれども『KINO』のガンダム特集の号だったかしら)、富野由悠希による『マトリックス』以降を例に挙げたテクノロジー批判を思い出させる。要するに、テクノロジーによってスペクタクルの量産が軽く可能になることは実質を低下させる、あるいはテーマのようなものがなくとも表現が成り立ってしまう、というような話だった気がするが、そうして創出されたスペクタクルは、中心が空洞の形骸でしかないがゆえに、用途に応じて、いかようにも歪曲できるし、それでもなお相応の効果を発揮する、といった危うさを自覚すべきだ、との意識が根底にはあるのだろう。むろん、これに対して、しょせんサブ・カルチャーなんてツールだし、と反論することは可能だが、たとえば浦沢直樹の(最近の)マンガを見ていると、作中人物自身が正義漢だからサブ・カルチャー表現における正義の味方に憧れるのではなくて、サブ・カルチャー表現における正義の味方に憧れるから作中人物が正義漢として描かれるといった具合に、つまり倫理や道徳よりもサブ・カルチャーのほうが上位にある、そういう世界観が、ごく自然と大勢に受け入れられている以上、やはり、ある種の慎重さは持ちたいところである。そのほか、収められている論考のなかでは、泉政文という人の書いた「誰がために我走る〜あだち充小論〜」が、もっとも自分の関心に近いものなので注目したのだけれども、あまり刺激を受ける部分はなかったかな。用いられている資料(あだち充と島本和彦の対談は以前『サンデーGX』05年7月号に掲載されていたものでしょう。論旨におおきく関わる箇所なんだから、ちゃんと明記しようよ)などから、「報われない属性」というタームを導き出してくるのだが、それはいわゆる、惚れた弱み、とどこがどう違うのか。三角関係における他者の重要性(ときに他者論が恋愛論と深く関わってしまうのはこのためである)についての考察が足りないというか、おそらくは意図的に無視されているからであろう、ここで主張されている〈「報われなさ」を経由した「優しさ」〉の意味を掴みあぐねた。

 ※この項、思うところがあって大幅に書き改めました。

 『COMIC新現実』vol.2について→こちら
 『COMIC新現実』vol.1について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(07年)
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