ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2007年04月12日
 女神の鬼 6 (6)

 ジャンルに限らず、今日における多くのマンガ表現を見渡してみても、田中宏は、とんでもない境地に入りつつあるな、と実感せざるをえない。『女神の鬼』の6巻であるが、ここから物語はといえば、主人公のギッチョが小学生であった頃(1979年時)から、1巻の冒頭でアナウンスされていた14歳になった頃(1983年時)へと転換することもあって、それを期に、あらためて最初から読み直してみた次第なのだけれども、いやあ、大筋から細部に至るまで、ここまできっちりと作者の目が行き届いた作品というのは、他に類例が少ないのではないか。たとえば、新規登場する雛石の弟ケンエーとか、雛石って弟いたのかよ、と突っ込みたいところで、じつは3巻の時点で、その存在が予告されていたのだし、そもそもビイストと(フレイヤの3人を含む)花山らの対立って、そのあたりが発端になっていたんだよね、と気づかされれば、〈仲間ぁやられたんどぉ!? 今すぐフレイヤ潰しに行こーやぁー!! のォッ!!〉というケンエーの言葉にも、べつの凄みが出てくる。またコンチャンの離反なども、振り返ってみると、ギッチョの仲間内にあって、唯一彼だけは、べつにギッチョのカリスマ性に惹かれていたわけではない、との人物造型がちゃんと過去に為されており、むしろコージとの関係性において、今後に何かしらかの因縁が絡んでくるのでは、と考えられるとしたら、フレイヤとビイストに別れ、敵対することになった彼らの立場にも、べつの解釈が必要となってくる。ほとんどの読み手が気に留めることはないであろう、北丸や小林あたりのワキの使い方も、じつに気が利いていて、小林が高校1年で、ギッチョが中学2年に設定されているのは、つまり小林が中学3年のとき、ギッチョは中学1年だったということで、近い地区に住んでいたこと以上に、世代的な接点があることの意味合いを含んでいるのではないか。このように、『女神の鬼』単体で見ても、すべてを見切るのが困難なほどの情報量が詰められているのに、それが『BAD BOYS』や『グレアー』といった、同作者の過去作と密接にリンクしているのだから、よけいに圧倒されてしまうわけだけれども、そうしたことに目を通していった結果、「繰り返し」というテーマがひとつ、作品の背景には隠されているようにも思う。それはたとえば、ギッチョとコージにおける友情の変化が、ギッチョの姉である舞とコージの憧れである真清の出会いを繰り返していたふうに、である。この巻でいうと、ギッチョのグループで、つねに足手まとい的な存在のタニケンが、中学生になっても小学生時代と同じ役回りを繰り返すのも、興味深い。ここでの流れの一部は、ある意味で、1巻以降の繰り返しにもなっているのだ。大きな視座でいえば、『女神の鬼』自体が、『BAD BOYS』や『グレアー』の繰り返しだともいえまいか、いや正確には、『BAD BOYS』や『グレアー』の物語こそが、前日譚である『女神の鬼』の繰り返しであったというべき、か。だからこそ時系列でいえば、いちばん最後の時代にあたる『グレアー』は、直截的に、輪廻転生を扱い、繰り返しの終わりで、終わる。ちなみに、これは三篇をまたぎ、多くの登場人物を見守ってきた初代極楽蝶の岩田(岩さん)の願いが叶った瞬間でもある。極楽蝶といえば、『BAD BOYS』で八代目だった司も、この『女神の鬼』で、やはり極楽蝶(四代目、五代目)と深く関わっていくことになるギッチョも、ともに屁をこきやすい体質であるということが共通していて、まあ些細なことだと言われれば、そのとおりではあるけれども、たぶん、作者はそんな些細なところまで考えている。さて。『女神の鬼』6巻の物語は、以前からその存在だけは意識され、ギッチョが一方的にライバル視するしかなかった金田が、本格的に登場し、「王様」というタームをめぐる争いは激化してゆく。一方で、「鬼」と蔑まれるほどの不良たちが送られていった先、「島」と呼ばれるそこでいったい何が起きたのか、そうして1巻の鬼祭りで一瞬挿入されたギッチョの見た光景が、どのような絶望を孕んでいるのか、すでに作者が用意しているのに違いない着地点は、こちら読み手からは未だ想像もつかず、今後の展開如何によっては、ほんとうにとんでもない境地に達することとなるよ、これは。

 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
 1巻と2巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(07年)
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのTrackBack URL
http://blog.seesaa.jp/tb/38520233