ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2013年12月10日
 クロコーチ(3) (ニチブンコミックス)

 ストーリーの進みは現在、こちらのリチャード・ウー(原作)とコウノコウジ(作画)によるマンガ版より、それを元にしているはずのテレビ・ドラマ版の方がいくらか先行している感もある『クロコーチ』だが、実際、両者の制作過程にどのようなコンセンサスが取られているのかはわからないのだけれど、ベースとなっているエピソードに決定的な違いはないと思われる。それはつまり、作品を成り立たせている大まかなパーツは一緒だということである。まあ、同じ登場人物であっても年齢や性別、性格などに違いの顕著な者もいるにはいる。しかし、そのことが必ずしもエピソードの違いとはなっていない。そこから一つ推測できるとしたら、『クロコーチ』の場合、エピソードが「主」であり、登場人物が「従」の方法論によって、作品が組み立てられているかもしれないことであった。要するに、三億円事件をヒントにしながら警察を巨大な権力として、警察の内部を巨大な陰謀論として描こうとしてることが、マンガ版とテレビ・ドラマ版の内容を一致させているポイントなのではないか。

 他方、国家レベルのヒストリー(戦後史)をアレンジしつつ、それを多国籍的なクライム・サスペンスに落とし込むというのは、リチャード・ウー(長崎尚志)が関わってきた作品によく見られる趣向であろう。これを念頭に置いて、大まかなパーツを共有しているマンガ版とテレビ・ドラマ版とを比較するとき、リチャード・ウーの原作におけるテクニックみたいなものがうかがえてくる。おそらくは長編のストーリーを複数のエピソードにバラし、その複数のエピソードをあたかもジグソー・パズルのピースのように扱い、あらかじめこうと定まった枠のなかに順不同で組み合わせていく。このプロセスを読み手は全貌の隠された「筋」として見ているにすぎないのである。もちろん、登場人物は(その行動を含め)複数のピースを跨いだり繋いだりする「絵」の役割を果たしているわけだ。そして、語弊をおそれずにいえば、コウノコウジの作風は、そうした「絵」にえげつない魅力を与えるのに相応しい。

 最初に、マンガ版とテレビ・ドラマ版とでは大まかなパーツは一緒と述べた。けれど、この3巻からは、クライマックスに向かってか、あるいは連載の長期化に向けてか、独自の展開が顕著になりはじめている。無論、テレビ・ドラマ版が独自の展開に入っているという言い方もできる。が、マンガ版の場合、リチャード・ウーとすぎむらしんいちのタッグによる『ディアスポリス 異邦警察』の他、江戸川啓視名義でクォン・カヤと組んだ『プルンギル -青の道-』や石渡洋司と組んだ『青侠 ブルーフッド』にあった異邦人の介入と猟奇的なイメージとが強調化されていっているようだ。

・その他コウノコウジに関する文章
 『ゲバルト』1巻について→こちら
 『肉の唄』
  3巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『アウト・ロー』(原作・木内一雅)13巻・14巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(2013)
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