ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2013年10月30日
 彼女のため生まれた (幻冬舎文庫)

 ああ、これが現代におけるハードボイルドなのかもしれない。でも、そこには自己犠牲とも似たヒロイズムを通じて獲得されるべき希望というものがほとんど見当たらない。殺伐とした事件の真相を、ニヒリスティックなアマチュア探偵が究明していくなかで、果てしない消耗が繰り返されるのみだ。救いはあったか。よくわからない。ただ、喪失の彼方でしか涙することを許されない主人公の姿に、たとえそれが絶望であったとしても、決して空虚とは思わされないだけの重量が備わる。浦賀和宏の『彼女のため生まれた』である。

 設定から述べると、『彼女のため生まれた』は同作者の『彼女の血が溶けてゆく』と登場人物たちのプロフィールを同一にしている。つまりは「彼女の」シリーズの続編ということになるだろう。もちろん、物語はそれぞれ独立したものであって、フリーランスで週刊誌のライターをしている桑原銀次郎が身近な人間の災難をきっかけに奇妙な事件と関わっていくという構成を(現段階では)シリーズの共通点としておけばいい。すなわち、大がかりな組織や犯罪に対して主人公の意志がどう立ち向かうのかではなく、規模が狭い世界の地盤沈下に対して主人公のスキルが行使されていることに着目されたいのだ。

 浜松にある実家が何者かに襲撃された。刃物に刺されて、父親は重傷を負い、母親は死んだ。東京から静岡へ駆けつけた銀次郎が刑事の質問を受けているとき、かつて彼が通っていた高校の屋上から一人の男が飛び降り自殺したとの報せを受ける。両親を襲撃した犯人である。なんとそれは地元の同級生、渡部だった。しかし親しかったわけではない。それがどうして銀次郎の母親を殺すに至ったのか。銀次郎の父親によれば、渡部は復讐だと言っていたという。高校の頃、銀次郎が赤井市子というクラスメイトに乱暴を働いたのだという。そのせいで市子は自殺したのだという。そして、渡部は市子の恋人だったと言ったのだという。だが、話を聞いた銀次郎からしたら心当たりはまったくない。何もかもが全部デタラメであった。大体、なぜ十数年後の今になって復讐がなされなければならないのか。その謎を解くべく、銀次郎は渡部や市子の家族との面会を試みる。

 以上がネタを大きく割らない程度の筋書きである。もしも渡部の言いが「真」だとしたならば、母親が殺された原因は銀次郎にあるということになる。実際には「偽」であったとしても、それを「真」と見なす者が一定数を越えるかぎり、真偽は不明となる。母親が殺された原因は銀次郎であるというテーゼは必ずしも「偽」とはならないのである。『彼女のため生まれた』において、主人公が挑まなければならないのは、そのような不確定性によって支配された世界にほかならない。

 作中では、銀次郎と渡部の背反したアピールをめぐるガジェットとして、ブログのコメント欄などが採用されている。上記した不確定性によって支配された世界とは、インターネットを基準としたリアリティ、価値観や群衆の心理、体験に対応しているのだろう。それを敷衍していけば、もちろん、陰謀論やデマへの信仰が立ち現れる。こうしたハーメルンの笛吹きゲームに図らずも参加してしまったこと、馬鹿げたルールであろうと参加を強制させられてしまったことに主人公の不幸はあるといえる。その際、彼を取り巻く世界がいかなる規模を持っているかはさして問題ではない。自分にとっては紛れもなく「真」であるはずのことが、他の誰かから「偽」であると否定される。自分にとっては絶対であるはずのことに、他の誰から疑惑を向けられる。いわずもがな、それはアイデンティティの否定へと通じているのである。

 思い返せば、浦賀和宏は、アイデンティティが脅かされることの不安をミステリの形式に落とし込んできた小説家であった。しかし、かつての作品では、メタ・レベルそのものであるような(SF的な要素ともいえる)現象が物語に介入してき、登場人物たちのアイデンティティに試練を与えることが多かったのだけれど、『彼女の血が溶けてゆく』や『彼女のため生まれた』には、そういう登場人物たちよりも上位の概念が、忽然と顔を出したりするような場面はない。デウス・エクス・マキナよろしく登場人物たちの運命を操作することもない。これが「彼女の」シリーズを、別のシリーズに比べ、一般的なミステリの仕様に近づけさせているのだろう。

 運命とは、他でありえたかもしれない可能性のなかからどうしてこの現在が選ばれたのかを問うことである。こうした問いが、死者である渡部と彼に母親を殺された銀次郎の対照には内蔵されている。本来、死者が生きている人間に反論することはできない。だが、死者の残した結果が、決定的な事実として認められしまっているとき、それに反論を加えることの方が難しい。それを覆そうとし、ニヒリスティックなアマチュア探偵は奔走するのだったが、殺伐とした事件の真相には、銀次郎の母親と渡部の母親とを含む、さらなる運命の対照が隠されていたのであった。

 浮かび上がってくるのは、銀次郎、渡部、市子、三者の母子関係であり、それは極度に個人化された社会のイメージと折り重なっていく。果たして母親は子供のために存在するのか。それとも子供が母親のために存在するのか。鶏と卵のジレンマを思わせる苦悩が、『彼女のため生まれた』という意味深長な題名とその悲劇には秘められている。

・その他浦賀和宏に関する文章
 『彼女の血が溶けてゆく』について→こちら
 『女王暗殺』について→こちら
 『萩原重化学工業連続殺人事件』について→こちら
 『生まれ来る子供たちのために』について→こちら
 『地球人類最後の事件』について→こちら
 『堕ちた天使と金色の悪魔』について→こちら
 『世界でいちばん醜い子供』について→こちら
 『さよなら純菜 そして、不死の怪物』について→こちら
 『八木剛士史上最大の事件』について→こちら
 『上手なミステリの書き方教えます』について→こちら
 『火事と密室と、雨男のものがたり』について→こちら
 『松浦純菜の静かな世界』について→こちら
 「三大欲求」について→こちら
 「リゲル」について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(2013)
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