ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2005年05月21日
 ファウスト vol.5

 ひと通り読んだので、全体の感想を書き出してみる。

 上遠野浩平の良い読者ではない僕には、第一特集は、いまいちヒットするものではなかった。90年代以降の青春あるいは日本の空気を体現しているという点でいえば、同時期にデビューしたといってもいい浦賀和宏のほうが相応しいような気もするが、そこいらへんは影響力や支持の大きさの問題なのかもしれない。まあ、やがて浦賀の特集が組まれないとも限らないわけだが。とはいえ、上遠野の小説は、それほど悪くはなかった。

 『ブギーポップ』シリーズを2、3作読んだことがあるだけなので、言い換えれば、その時点で自分にはフィットしないと思ってしまった人間なので、あまりエラそうなことは言えないのだけれども、少年や少女ではなくて、成人した男女が主人公であるわけだが、しかし、彼や彼女の内面は、けっして成熟していない、ある種のアパシーに浸されている、という部分が、なるほど、90年代以降というタームを担っているのだろうとは思わされた。が、ウエダハジメのイラストとのマッチングは、あまり良くない感じがした。それはやはり、少年や少女が主人公ではないからだろう。いやいや、でもね、P131からP133における小説の内容とイラストのコンビネーションは素晴らしく、その箇所だけは絶対的な成功を収めている、ちょっと感動した。

 ところで、アパシーといえば、浦賀和宏の小説もまた、アパシーズ・ラスト・キスな内容だといえる。アパシーから、エモーションを回復するのではなく、エモーション自体はもともとない地点から、それを獲得してゆく物語の体は、上遠野のものと符合しているといえるが、僕はといえば、やはり、こちらのほうに感情移入する。ストーリーというか設定は、前号に掲載されたものの続きであるわけだが、前回のラストで明かされたその世界の秘密を踏まえて読み進めると、おそろしいほどの絶望によって物語が支配されていることがわかる。「ここではないどこか」などどこにもないのだ。登場人物たちだけがそれを知らず、あるいは薄々感づいていながらも、生きてゆくために希望を捏造するという構図は、浦賀作品の特徴であり、それは今日を生きる我々の自意識を反映していると思う。また、正確には把握できない枠に支配されているという感覚は、やはり上遠野と通じるものを持っている。浦賀と上遠野の違いは、大きくいえば、身体の捉まえ方だろう。それは、あるいは女性の描き方の違いにも現れているのだった。

 赤田圭一(元『クイック・ジャパン』編集長)と太田克史(『ファウスト』編集長)との対談で、清涼院流水や西島大介をヒップホップと結びつけた話が出たり、また赤田は舞城王太郎について〈ナイン・インチ・ネイルズの世界観に近い〉といったりしているけれども、テクノ・ミュージックを培養液とし、断絶と結合の物語を執拗に繰り返す浦賀の特性こそ、もうちょい注目されてもいい。

 佐藤友哉の短編3つは、2つ目のものが良かった。1つ目のものと3つ目のものは、もしかしたら佐藤以外の人間にも書けるような内容だと思うけれども、2つ目の「対ロボット戦争の前夜」における、自分対世界の見取り図の描き方、世界は皮肉に満ちているのだという言い切りのようなものに、佐藤ならではの筆力を感じる。西尾維新の『りすか』は、さて、どうだろう。前半の文体にやや変化が見られるのは意識的になのかどうか、といった点に、目がいった。後半はいつも通りの文体に回帰するので、無意識的なのだろうな、というのが僕の読みである。それはそれとして。舞城王太郎は、どうかマンガやイラストを描く時間を、小説に回してください。まあ、もしかしたらマンガやイラストを描くことによって、なにか創作意欲のバランスを保っているのかもしれないが、それでは文楽云々とかいえなくなってしまう。や、マンガは巧い下手はべつとして、それなりにおもしろかった。けれども、このようなものであるならば、マンガの世界では、真鍋昌平あたりが、すでに先に、もっと巧く、やってしまっているような気がしたのだった。その他、掲載された2つの批評に関しては、すこし笠井潔バイアスがかかってしまっているような感じがする。対談やインタビュー、コラム等については、割愛。

 これ、あとで書き直す(書き足す)かもしれません。しないかもしれません。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書。
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