ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2013年10月07日
 ヤンキー塾へ行く(1) (ヤングマガジンコミックス)

 巷では佐野菜見の『坂本ですが?』がスマッシュ・ヒットとなっているけれども、案外この荒木光の『ヤンキー塾へ行く』はヤンキー・マンガ版の『坂本ですが?』になりえるのでは、と思うことがある。ただし、荒木の手つきは、人工的な制度としての学校生活を(それが人工的な制度でしかないことをあたかも見透かすかのような)ギャグへと転化するのではなく、今日的なアンダークラスのリアリティを学校生活を中心としたミニマリズムのなかに落とし込もうとしているところがあって、そこに色合いの大きな分かれ目が見つけられる。

 他方、もしかしたら『ヤンキー塾へ行く』は2010年代版の(ハロルド作石の)『ゴリラーマン』なのかもしれない、と思うこともある。学校生活というモラトリアムの野蛮さ(自由、可能性)と黄昏(不自由、不可能性)とを不良少年の戯れに投影しているのだが、しかし『ゴリラーマン』の引用を示せば示すほど『ゴリラーマン』が持っていたリアリティとかけ離れていく柳内大樹の『ギャングキング』とは違い、目上からの視線が物語とオーヴァー・ラップしたり、それによって作品の基準をずらしたりはしない。あくまでも若い登場人物たちの実感、生活臭に寄り添うことで、当人はマジであろうと傍目には茶番劇にすぎない、ドタバタのコメディとも受け取れる様式を作り上げているのである。

 年代や掲載誌、読者層やジャンルを越え、ある種の学園ものにおけるパターンとして『ヤンキー塾へ行く』と『ゴリラーマン』『坂本ですが?』の共通項を挙げることは容易い。一般的な学校生活のその風景、そのシンパシーのなかに異物、ストレンジャーの役割を分担された主人公が導入されているのである。これはつまり、作劇上の普遍性でもある。

 たとえば、麻生周一の『斉木楠雄のΨ難』ならば、やはりストレンジャーであるような主人公のモノローグを、所謂ボケに対するツッコミの声とし、状況を俯瞰する立場とイコールで結ばれるメタ・レベルを作中に召喚することで、ギャグのスタイルを完成させているのだけれど、先の三者に関していうなら、主人公の思考や内面は極力(読み手にも作中のポジションでも)伏せられている。無表情に近く、さらには口数の少ないその姿は『斉木楠雄のΨ難』の主人公とさほど変わらない。にもかかわらず、『斉木楠雄のΨ難』とは異なって、彼らはメタ・レベルを召喚するための回路ではない。基本的にその寡黙さは、他とのギャップを暗示している。クリシェであり、主人公がストレンジャーであることを読み手に了解させるためのデフォルメにほかならないのである。無論、アピアランスや知性についてはまた別の問題だろう。

 さてしかし、ここまでの話は『ヤンキー塾へ行く』の連載ヴァージョンといおうか高校生編に入ってからの展開を前提としている。コミックスの1巻に収録されているのは主にプレ連載ヴァージョンの方である。あらためて読んでみると、プレ連載ヴァージョンの中学生編では不良少年のロマンとアンダークラスのリアリティとが「受験」すなわちターニング・ポイントのテーマを前にして不可避に衝突している感じがする。それが高校生編になると「受験」のかわりを「日常」が果たしていく。その「日常」を背景にしながら、モラトリアムの野蛮さ(自由、可能性)と黄昏(不自由、不可能性)とが前面に出てきているのである。主人公の碇石はより無口となり、明らかに池戸定治(ゴリラーマン)化が進んでいる。まあ、それは段々と思慮を得ているというイメージの具現であるのかもしれない。

 ただ、プレ連載ヴァージョンであれ、連載ヴァージョンであれ、たとえ「受験」がテーマであろうと「日常」を背景にしていようと、タイトルにある「塾」の存在が学校生活の外部として想定されている。このことは一貫している。「塾」に通う碇石はストレンジャーであると同時に外部を覗く人間なのである。もしくは帰属すべき集団の外部を覗いているがゆえにストレンジャーなのだ。ケンカの強さが最高のカタルシスなのはもう疑いようがない。イヤな奴はぶん殴っていいよ。燃えるしね。だが、それだけでは立ちゆかない社会の壁が主人公のすぐそばから彼の青春を覗きおろしている。
 
 1話目から3話目について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(2013)
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