ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2013年08月10日
 聖闘士星矢EPISODE.G 20 (チャンピオンREDコミックス)

 要するに手法としていうところの「対話篇」にほかならないのだ。聖闘士(セイント)による一対一(タイマン)のバトルってやつは。光速域で応酬される拳のラッシュは、雄弁に語られる思想の硬度を可視化させ、互いが互いにとってのアンチテーゼであることを具体的に強調するための演出となっているのであって、どちらが正しいか正しくないかを問うかのような交わりのなかに、ロジックを越えたスペクタクルが生じているのである。そして、それは車田正美のオリジナルのヴァージョンの段階で既に発明されていたものではあったが、岡田芽武の『聖闘士星矢 エピソードG』ではそうした方法論の更なる徹底が試みられているだろう。

 遂に最終決戦である。神王、クロノスは世界の崩壊を望みながら、黄金聖闘士のアイオリアに向かい、こう述べる。〈キレイダネ―― これが―― 人の命の輝きガ―― 陽の当たる場所へ昇ってユクヨ / イイナァ まるで宇宙だネ / キレイだなァ / あの全ての星が砕けて消えたら きっと もっと美シイヨネ / 漆黒の闇は―― アタタかくて悲しくテ…… 安心出来ル―― そンな夜空をボクが全ての命にあげルネ〉というそれはあまりにも孤独であるがゆえに魅惑的な思想なのだし、ポエムだ。

 しかし、これをアイオリアは〈宇宙の星は… もう死んだ星の最期が見えてる / でもその輝きは今でも残っていて見てくれてるンだ / 死んだ者達がそうやって生きる人を見守ってくれるってオレは思う / そうやって希望という光を―― 星々は静かに見せてくれている / 人は一人では無い―― 見えなくても共に歩んだ人は 光となって道を照らしてくれている / オレは… そう信じているんだ――〉と裏返す。つまりはクロノスが言う孤独を否定するがゆえに魅惑的な思想を、ポエムを述べてみせるのだ。絶望にも美しさがある。同様、希望にも美しさがある。だが、どちらか一方を正しいとしなければならないとき、黄金聖闘士の聖衣(クロス)は後者の美しさによってのみ輝くことを選ぶのであった。底の見えない絶望を前にしてさえ、希望をその拳に託し、運命に抗おうとするのである。

 時々、『聖闘士星矢 エピソードG』におけるアイオリアの登場(1巻)を思い出す。テロリストが引き起こした原子力発電所の暴走を食い止めるため、アイオリアは物語に召喚されるのだった。もしも聖闘士がいてくれたなら、どんな天変地異からだって我々は守られるんだぞ。もちろん、聖闘士は実在しない。だが、フィクションの描き出す希望をことごとく儚いとは言うまい。ちっぽけであろうが、世界の一片として、未来に関与すべく、踏ん張ること。様々な迷いを経ながらも、アイオリアの行動理念はこの最終巻(20巻)に至るまで一貫している。いかなる強敵を前にしようと、たとえ神をも向こうに回そうと、地上に光の道が敷かれることを願い、自らもそこに溢れた光の一筋であろうと信じ、戦い続けていたのである。

 果たして彼の想いはクロノスに通じたか。亡兄であるアイオロスにあらためて投げかけた次の言葉は、まだ発展途上である少年のそのエピソードのフィナーレに相応しい。〈兄さン… ボクは翼はないけれど―― 黄金の獅子の鬣を持つ資格のある―― そんな聖闘士になれたかなぁ?〉当然、これは読み手に投げかけられた問いでもあって、なれた、なれたに決まってらあ、と答えてあげたい。

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posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(2012)
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