ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2007年03月28日
 夜刀の神つかい 11 (11)

 前巻で、夕介と菊璃の物語は終わった。だから最終章である「太陽の理」は、夕介の言葉にしたがえば、〈国とか世界とか宇宙の物語だ〉ということになる。『夜刀の神つかい』の11巻では、夕介不在のまま物語は進み、“神”の紐付きである“夜刀の神”と“人”の紐付きである“夜刀の神つかい”の相克がいかにして発生したのか、その真相へとまた一歩近づく。立場は違えど、お互いの実力を認める久米と峅杷は、対決のさなか、久遠であり刹那である空間へと飛び、それぞれの自意識を共有し合う。一方、現世では、ふたりの止めどない力に触発されたのか、封印されていたはずの龍穴から、かつて砌(みぎり)を滅ぼした小林猶之介の姿が浮かび上がるのだった。いかんせん一冊一冊の出るスパンが長すぎるのはともかく、作中の進行は、この手のパターンである過去の回想などを挟みながらも、だれることなく、意外とスピーディで、また予想だにしなかった展開が次々と続いてくれるので、じつに読ませる。ここでは久米と峅杷のトラウマ的な気分が相互干渉するわけだが、結果、童心に帰ったふたりがテトリスで勝負をする場面が、すごく、いい。要するに、世界を一変させる(かもしれない)ほどの力の衝突と、その発端となった過去の傷が、子供向けのサブ・カルチャーによって回避されている光景であり、おそらくは、そうして他者とのはじめての出会いがやり直されている。“夜刀の神”と“夜刀の神つかい”の相克も、あるいは他者関係の換喩であろう。峅杷が語るとおり、そもそも“夜刀の神”とは、人類にとっての異者であった。しかし、それを利用するがために、他者として組み込んだとき、〈新しいタイプの“夜刀の神”が大量に生まれ〉ることとなって、〈“夜刀の神”と人との間にそれまでは無かった相克もまた新しく生まれる事となった〉のである。思えば、このマンガは、そのような他者によってもたらされる主体の揺らぎを、または対(つい)となるような二項の相関を、いくつもの異なる局面のなかで描き出してきた。夕介と菊璃の物語も、そのヴァリエーションのひとつ、といえよう。では、作中にあって唯一例外的な存在である砌は、そうであるがゆえに神に近しい場所へ立つのか。いずれにせよ、すべてにかかる物語は、あと数巻のうちに結着がつく。

 10巻について→こちら
 9巻について→こちら
 8巻について→こちら

 文庫版『コックリさんが通る』(上)について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(07年)
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