ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2007年03月26日
 泣き虫弱虫 諸葛孔明 第弐部

 かつて『小説すばる』に不定期連載されていた酒見賢一のコラム「マンガたたき台」が最高潮に好きでね、つねづね一冊にまとまってくれないものか、と願っているのだが、なかなかなあ。でさあ、と話が続くのは、この『泣き虫弱虫諸葛孔明』における酒見の書きぶりは、じつはあそこでのそれに近いのじゃないかしら、と思うからで、もちろんこれはコラムなどではなくて、純然たる歴史小説である(はず)なのだけれども、中国史上において名高い武将たちの厳然たる漢(おとこ)ぶりを期待して読むと、びっくりすること間違いなしである。たとえば、かの関羽などは〈たんに「器の小さい髯自慢の男」と切り捨てたいのはやまやまなのだが、その強さは天下無敵、一人で一万の兵を殲滅可能という戦術核兵器type-Iじみた虐殺の達人だから、一目も二目も置かざるをえないのである〉と形容され、〈書物に極端に影響されて人の道を誤る理想主義者はときたまいる。関羽が始末に困るのは動機がたいてい“義”であるだけに(理論上は)道を誤っているとは言えないし、道義とは誰にも否定しようがないものであるから、皆恐れて間違いを指摘できず、(現実に照らした)勇気ある忠告をする友もいなくなった。それがまた関羽のプライドを暴走させてしまうのである〉とまでいわれてしまう。しかしながら、けっして関羽を貶めるためにのみ、こう書かれているわけではない。記述者であることに自覚的な語り手(ときに作者自身)の存在は、酒見のデビュー作である『後宮小説』のときからして、すでに顕著なものであったが、それというのはつまり、作中の人物に対して絶えず行われる批評が、小説の内部に持ち込まれることを意味する。ここでは、『三國志』正史や『三国志通俗演義』その他もろもろの先行する関連テクストを参照し、引用することで、虚構的な事実(あるいは事実的な虚構)が再検証され、再構築されている。第一部(無印の『泣き虫弱虫諸葛孔明』)では、主人公である孔明が三顧の礼をもって劉備軍入りするまでが描かれていたけれど、第二部(第弐部)では、長坂坡の戦い(いくつもの伝説つくり)をクライマックスに、難物揃いである劉備軍のなかにあっても奇抜さでは引けをとらない孔明がいかに彼らをコントロールしてゆくのか、が、ユーモア満載の語り口によって捉まえられている。いやあ、ほんとうに砕けた文章で、某アニメの主題歌を大胆にも組み込んじゃったP120あたりのくだりには、思わず仰け反った次第である。そういえば、と、ここで話は変わるのだが、『後宮小説』が第一回ファンタジーノベル大賞を受賞したさいの選考委員には高橋源一郎がいたからいうわけではないけれども、高橋が『ニッポンの小説』でやっていることと、酒見が『泣き虫弱虫諸葛孔明』でやっていることは、あんがい近いのではないか。近しいが、しかし異なる。要するに、似て非なる。『ニッポンの小説』は、書き手が、作品ばかりではなくて自身すらも、詩になることを恐れない、むしろ望んでいるので、純文学(ないし純言語芸術)的に機能しようとする。一方で、酒見の場合は、たとえば『陋巷に在り 1』文庫版の「あとがき」などから推測できるとおり、詩と小説の区別は判然としており、あくまでも小説家であろうとする意識によって、その作品は物語的に読まれようとする。むろん、それをもって文芸におけるジャンル的な言いを述べるつもりもないし、せいぜいが、たんなる私見に過ぎないのだが、せっかくなので思い付いたままに記しておきたい。


posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(1) | 読書(07年)
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泣き虫弱虫諸葛孔明 第二部
Excerpt: 酒見 賢一 泣き虫弱虫 諸葛孔明 第弐部 「泣き虫弱虫諸葛孔明 第二部」 酒見賢一 文芸春秋・出版 『孔明さん出廬から長坂坡の戦いあたりまで』  軍師ならぬ、ぐんしーの孔明..
Weblog: 個人的読書
Tracked: 2007-04-30 17:58
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