ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2013年07月04日
 静かなるドン(108)(完) (マンサンコミックス)

 新田たつおの『静かなるドン』は、長いあいだ、コミックスのオビに累計4400万部とアピールされていた。実際、えらい数字ではあるのだが、どれだけ巻数を増やしてもそれが更新されることはなかった。ああ、このクラスのマンガでも(あるいはタイトルだけで内容を知っている気になってしまうようなこのクラスのマンガだからこそ)売り上げを大きく伸ばすのは難しいんだな、と思わされた。しかし、ついに最終巻のオビで「累計4500万部突破!」と相成った。最終巻というのはつまり108巻のことで、108という数字はもちろん除夜の鐘の音に相応しているわけだけれど、まあ、そこまでの含みがあるのかどうかはともかくとしても、まるですべての煩悩が遠く過ぎ去ったみたいに穏やかでいて静謐なラストを迎えるだなんて。本当に誰が予想したかよ。ギャグであること、シリアスであること、それからアクロバティックな展開を並立させながら、『静かなるドン』は一組のカップルの数奇な運命を、いや、大団円というのはとはまたちょっと異なる。感動とも似て非なる。けれど、確実に素晴らしく素晴らしい光明のなかへと到着させたのである。

 鬼州組の海腐が退き、白藤龍馬が台頭した当初、ああ、近藤静也はこいつと最終決戦を繰り広げるのだな、と予感させたよね。もしくは物語のスケールが拡大するにつれ、世界皇帝リチャード・ドレイク5世が姿を現したときは、ああ、近藤(と龍馬)はこいつと最終決戦を繰り広げることになるのかな、と想像させた。おそらく、構想の段階ではそのような筋書きもあったかもしれない。が、結果的にはそうはならなかった。龍馬は呆気なく退場し、ドレイクは容易く失脚してしまう。てっきり、カリスマとの壮絶な死闘を通じて主人公はエンディングに向かうのだと踏んでいたのだが、違った。これは大河型のストーリーにおける従来の文法を巧妙に逸しているということでもある。確かにシチリア・マフィアのドン・メタボーニやアメリカの政界を裏から操る死の商人チャック・グリードキンは巨大な権力であるし、世界を揺るがすほどの秘密を収めたメモリー・チップを巡り、主人公はもちろん、ヒロインの秋野明美をも巻き込んでいく陰謀劇こそが本筋という見方もできる。が、実のところ、それらも後景でしかなかった。メタボーニの脅威は日本国内における東西ヤクザの対立にあっさり上書きされ、グリードキンは最後までせこい悪役として描かれる。

 かくして、前景に浮上してくるのは、やはり、近藤と秋野のラヴ・ロマンスにほかならない。龍馬の復讐のため、ドレイクやグリードキンに単身挑んでいく主人公の姿、あれはヤクザと会社員の二極に引き裂かれる近藤静也とはまったくべつのものであろう。どちらの組織をも離れ、あくまでも個人としての責務を果たそうとしている。このとき、組織内におけるメタボーニの引退やドレイクの失脚も同様、個人への回帰であり、それがささやかな幸福を伴っているかのように表されているのは案外、象徴的である。その意味で、メタボーニやドレイクすら歯牙にかけず、どんな組織も敵わないグローバリズムの頂点に立ち続けようとするグリードキンは正しくヒールに相応しい。グリードキンのもとに辿り着いたはいいが、囚われ、死よりも強烈な拷問にかけられることとなってしまった主人公を一体誰が救えるのか。もちろん、『静かなるドン』が近藤と秋野のラヴ・ロマンスをメインのテーマにしているとするのであれば、その役割は秋野明美以外にありえまい。近藤を助けるべく、龍馬から託されたマイクロ・チップを手にグリードキンとの直接交渉に向かおうとする秋野が、下着会社であるプリティの社長の座を他に譲り渡していかなければならないのは、無論、それが組織の問題ではなく、恋愛という個人の領域に属したテーマによっているためだ。

 グリードキンと相対する秋野は「新鮮組三代目の妻」を名乗る。そうした肩書きにおいて比重が大きいのは「新鮮組」の方ではない。「三代目の妻」だという点だろう。近藤はアメリカに仇をなすテロリストとしてグリードキンに囚われた。いくら個人として行動しようが、日本のヤクザはアメリカの政府にテロリストだと断定されているからである。たとえ冤罪であろうと、そのテロリストに味方する行為はテロリズムになりかねない。ヤクザのパートナーという肩書きは、個人であること、それが図らずもパブリックな立場を負ってしまうようなアンビバレンスを暗に含んでいるのではないか。もしかしたら、そうしたアンビバレンスこそが『静かなるドン』の、近藤と秋野のラヴ・ロマンスにとって最大の困難を担っていたのであって、それがクライマックスにきて、とうとう一つの結論に統合される。秋野に救い出された近藤静也とは何者であろう。彼女と同じプリティの社員だろうか。「新鮮組三代目」なのだろうか。それらとは既に無関係ないち個人にすぎないのだろうか。二人の涙を通じて確認されるのは、そのような問いでさえもほぼ無効化された境地なのであった。それはたとえば、フランスの哲学者であるサルトルがいうところのアンガージュ(アンガジェ)と密接な存在を思わせる。アンガージュとはもちろん、英語でいうエンゲージ(engage)のことであり、もしも近藤をサルトルに喩えられるなら、公私ともサルトルに影響を与えたボーヴォワールは秋野となるわけだ。

 かように様々なドラマを乗り越えてきた近藤と秋野だったが、しかし、だからといって「いつまでも幸せに暮らしました。めでたしめでたし」とはならない。どれだけ深く愛し合っていながらも二人は別離という答えを出すのだった、ああ。多くの犠牲の上に成り立ったラヴ・ロマンスである。ギャグのタッチがそれを忘れさせるけれど、あまりにもたくさんの人間が血を流しては死んでいった。あるいは作中の当事者にあたる二人だけがそれを決して忘れてはいないので、近藤はヤクザに戻り、秋野は日本を旅立つ。ここで彼らが選び取っているのは、単純に自分たちで自分たちを罰するような罪悪感などではない。過去にあったすべてが無駄ではないのだとし、積極的に未来を築き上げるにはどうすればいいのかを決心している。最後のとき、秋野は近藤に次のような言葉をかける。〈あなたはちゃんと道を選んだわ / あなたは今 / 何も隠さず / あなたの選んだ道を突き進んで!/ もう誰にも卑怯だなんて言わせない〉というこれは、誰もが何らかの使者であるということ、運命からは逃れられないとしても、運命は変えられるものだということを示唆している。現在が未来へと通じているかぎり、運命は変わり続けるものだということを肯定している。そうであるがゆえに、二人の別離は悲しみよりも美しい。

 新鮮組に復帰した近藤は〈たとえそれが叶わぬ夢だとわかっていても…〉国内の暴力団の解体を目指す。そこにはもう迷いはない。かつて『静かなるドン』とは、昼はサラリーマン、夜はヤクザの組長、凶暴性を内に秘めながらもおっとりとした主人公の姿に由来していた。だが、それはラストのページでまったくべつの意味に変容している。トレードマークのサングラスはある種のペルソナに相違ないが、それは今や本性を隠すためのものでもないし、押しつけられる圧力を逃れるためのものでもない。どのような運命をも引き受ける。引き受けられるという覚悟と同義であろう。約束を守ることは約束に守られることでもある。約束を生きることの尊さが穏やかでいて静謐な場面に重なる。凪のイメージに投影される。

 それしても見事なエンディングだ。ワキの登場人物たちの進退にまで十分な気が配られている。(当初はそうでもなかったが)ギャグ・マンガのジャンルから飛び出してきた生倉と肘方はまるでギャグ・マンガのジャンルに帰っていったようでもあり、シリアスな劇画のジャンルから飛び出してきた鳴戸と龍宝はまるで劇画のジャンルに帰っていったようでもある。そう考えられるとしたら、いくらか牽強付会になるかもしれないけれど、近藤と秋野の選んだ道がどこに繋がっているのかがよくわかる。荒唐無稽なファンタジーをくぐり抜けた先でようやく二人はフィクションのなかの現実を歩きはじめたのである。分かれ、離ればなれであったとしても、同じ現実を。歩いていく。

 107巻について→こちら
 98巻について→こちら
 文庫版1巻、2巻について→こちら


posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(2013)
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