ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2013年06月28日
 ノスタルジア (マーガレットコミックス)

 系統としては、羽柴麻央や咲坂伊緒あるいは初期のアルコを彷彿とさせる一方、ぼんやりとした輪郭の淡いタッチが、80年代から90年代初頭における『別冊マーガレット』のラインを思わせる。もちろん、新人である以上、こうした特徴は徐々に洗練され、変化していくに違いないし、現状、没個性だというのでもない。総じて、いなたい。だが、いなたさのなかにきらきら光るものがしっかり備わっていて、それを個性と呼びたくなるようなところがある。全六編を収めた読み切り作品集だが、「真っ赤なチューリップを君に」や「キンモクセイ」「ゆめのはなし」などは、少女マンガの枠にそいながら、ヤング誌あたりにひょっこり載っていても案外不思議ではなさそうな雰囲気を持っており、これを普遍性と呼びたくなるようなところがある。萩原さおりの『ノスタルジア』である。

 ここに入っている読み切りはどれも、ボーイ・ミーツ・ガールをモチーフとしているといってよい。たとえラヴ・ストーリーとは見なせないものであったとしても、一対の少年と少女を基本のユニットにし、二人の交流がどのような変化を心に及ぼすのかを掴まえているのである。おおよその場合、ボーイ・ミーツ・ガールとは、人と人の出会いはその人を変えられるか、という疑問形に、人と人の出会いはその人を必ずや変えられる、という断言で答えることであろう。「キンモクセイ」に描かれているのは正しくそれが起こったときの「記憶」であり「風景」にほかならない。はっきり〈秋は好きじゃない〉と否定されていたはずのことが、かつての同級生との穏やかな時間を通じ、〈もう少ししたら 秋を好きになれそうな気がする〉と肯定されるような結びに運ばれていく。

 同じく「ゆめのはなし」では、漠然とした将来、漠然とした不安、漠然とした自分自身を持て余した少女の、決して急ぐのではなく、ただ漠然とした日常を過ごしながら、次第にこうと足どりの定まっていく様子が、ボーイ・ミーツ・ガールの挿話として描かれる。

 美大の受験に備え、近辺の画塾に通いはじめたヒロインが出会ったのは、大変才能に恵まれた少年であった。彼女が直面するのは、彼との実力の「ひらき」である。少年の置かれている立場がトップだとすれば、少女の置かれている立場はボトムだといえよう。しかしどうしてか。少年は少女のことを気にかける。なぜ気にかけるのか。詳細を述べようとするなら、この、なぜ、には不思議な巡り合わせが隠されており、題名にある「ゆめのはなし」の「ゆめ」は一種のダブル・ミーニングになっているのだけれど、お話そのものはさほど複雑ではない。単純に、少年の少女に対する積極性によって両者の「ひらき」が越えられる(または埋められる)こうしたアプローチの在り方をロマンスだと解釈しても構わないと思う。ただし、作品の体温、優しい余韻はやはり、ラヴ・ストーリーとは一概に判断できない含みの方からやってきている。

 足が地に着いていない、という喩えがある。「ゆめのはなし」において、様々な角度の構図とアクセントの凝らされたコマ割りが再現しているのは、あくまでも日常を日常たらしめている「風景」だろう。だが、そうした「風景」が浮き彫りにしているのはむしろ、立場の違いこそあれど、足が地に着いていない、という一点で共通している少女と少年の姿なのではないか。引いたカットでは、確かに彼らは「風景」に溶け込んでいる。反面、寄ったカットになると、その眼差しは具体的な「風景」とは違うどこかに向かっている。少なくともそう感じられる対比が、いくつかのシーンに生じている。では、そのような乖離はどうしたら統合されるのか。

 答えは最後の場面にある。少年の発見した「記憶」は紛れもなくボーイ・ミーツ・ガールのそれであって、固く握られた手、走っていく二人の姿、まっすぐな足どりに象徴されているのは、人と人の出会いはその人を必ずや変えられる、という断言にほかならない。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(2013)
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバック