ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2013年06月15日
 銀のスプーン(7) (銀のスプーン (7))

 ぼろぼろ泣くでしょう、これ。ぼろぼろ泣くよ。ルカのかわいらしさといじらしさはずるいし、トミカの消防車でぼろぼろ泣く。前巻(6巻)に引き続き、自分にもう一人の弟がいることを知り、もしかしたらその弟のルカ(雨宮路加)が母親からネグレクトされているのではないかと思った主人公の律は、自分がどうすればいいのか、自分に何ができるのかを悩む。誰にも悩みを打ち明けられないせいで、ついにはあんなに親密となった夕子との距離も開きはじめてしまうのだったが、それでもルカのために多くの時間を割かずにはいられない。幸福を願うこと。幸福は伝えられるということ。律とルカ、そして早川家に訪れる新たな転機に、ちくしょう、幸福に見えることは不幸に見えることの何倍も泣けるんだな、と実感させられるのが、小沢真理『銀のスプーン』の7巻である。

 サイキックスがいい奴であった。相変わらず駄目な奴だけれど、いい奴であった。シリアスな展開が続くなかに、こういうユーモアを入れ、行き詰まりの展開をギア・チェンジさせるそれが無理のない筋を運んでくるところに、ああ、『銀のスプーン』の魅力はあるのだなあ、と思う。一個の人間から多方向に伸びる関係性の芽が、ある場合には夕子のようなすれ違いを生んでしまう。ある場合にはサイキックスのような励ましやアドヴァイスとなりうる。翻り、そうした様々な関係性の芽を束ねることでしか一個の人間は充実されえない。プライオリティの違いはあるかもしれないが、ルカを含め、誰もが律にとって欠かせない存在なのであった。料理マンガ(グルメ・マンガ)の体裁や家族というテーマで考えるなら、もちろん絵のスタイルや読者層は異なるものの、案外うえやまとちの『クッキングパパ』(とりわけ、まことが思春期を経て以降、70巻あたりから)の印象に近いものがあるのではないか。

 引き合いに出したついでに述べるなら、『クッキングパパ』が(題名にある通り)父親であったり父性であったりを頂点とした作品であるとすれば、『銀のスプーン』は、むしろ父親のいない舞台を描いているといえる。家族、家庭と生活において、母親がその核となっているのである。したがって、その母親を失ってしまうかもしれない可能性が、物語の序盤では、登場人物たちの困難となっていたのであって、反対にこの7巻では、母親の母親であることの寛容さを通じ、幸福なワン・シーンが、登場人物たちにもたらされていく。このとき、早川家の母親とルカの母親(律の実の母親でもある)を一つの対照として、たとえばそれは良い母親VS悪い母親のような図式で見ていいものだろうか。おそらくは微妙に違っている。なぜなら、ルカの母親が母親になることを拒んだ結果、ルカは育児放棄されているのだし、前例である律の立場も踏まえるとしたら、ルカの母親は母親のイメージそれ自体を徹底的に手放している。

 正直な話、ルカの母親が幸福か不幸かはわからない。一概には判断できない。しかし、少なくとも『銀のスプーン』の倫理においては、早川家の母親が幸福のイメージを支えているのは明らかだ。ルカのことで悩んでいた律だったが、サイキックスのアドヴァイスを受け、そしてとあるハプニングを得て、とうとう言えないでいたことを母親に打ち明けることとなる。そこで律は母親に救われている。いや、律ばかりではない。律をあいだに挟みながら、ルカもまた早川家の母親に救われているのであって、物語の暗さも、あるいはそうした物語を目にしている読み手も、元を辿るならすべて早川家の母親に救われているような構造が出来上がっているのである。ともあれ、ルカのかわいらしさといじらしさがもう、ずるいんだよ。トミカの消防車、つまりオモチャは子供にとって幸福のシンボルであろう。それを兄弟4人の複数で同時にプレイできるWiiのマリオカートへと移し換えたワン・シーンがあまりにも穏やかで平和で、ああ、これは涙もろい人間には仕方ない。ぼろぼろ泣くね。

 6巻について→こちら


posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(2013)
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