ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2007年03月19日
 渋谷区円山町-桜

 このたび映画化された『渋谷区円山町』の続編、おかざき真里の『渋谷区円山町―桜―』であるが、じつはそれとは無関係に併録されている「フカミドリ」が興味深い。04年の作品である。話題が噛み合わないせいで、高校のクラスから浮いてしまい、苛めに遭った亜咲は、夏休みのあいだ、小説家で血の繋がらない姉である彩子に家事手伝いとして呼ばれ、山間の一軒家で過ごすこととなるのだったが、そこには姉のほかに、幼い子供のミサキを連れた謎めく若い男性、夏樹が居候していた。なぜ彼らは、恋人や家族というのでもなく、世間から離れ、ひっそりと暮らしているのだろうか。三人が秘めながら共有する悲しみに触れ、亜咲は、それまでに想像することもなかった種類のやさしさがあることを、知る。つまりは傷ついた少女の再生劇ともとれる内容であり、アウトライン自体はよくある手のものなのだが、最後まで厭世感が手放されないところに、ある種の壮絶さが感じられたりもするのだった。たとえばここで恋愛とは一個の他者体験だとしよう。亜咲は生まれてから17年間、誰かを好きになったことがなく、そのことがクラスメイトからすれば〈えー変わってるってゆーかヘンだよー〉と指摘される点なのであって、じじつ他人に深く関心を持つことなぞどうでもいいと思っているから、〈亜咲は恋バナしないもんね〉〈うちらのことバカにしてるでしょ〉と迫害されてしまうのだけれども、彩子の家で夏樹と接するうち、彼に惹かれはじめ、〈夏樹さんのコト……もっと知りたいのにどうしていーのかわかんない〉〈知りたい……触りたい〉〈知って欲しい〉〈こういうのって初めてで〉と、要するに初恋をし、その対象に接近しようとするさい、必然的に感じられる距離感によって、自分ばかりではなく〈みんな気持ちでできている〉ことに気づく、そのような意味で、はじめて他者に出会ったといえるわけだが、物語はしかし、そこで、外に出て他者に出会え、式のメッセージには着地していないふうに思われる。夏休みが終わると、学校へ戻らなければならない亜咲はともかく、彩子と夏樹にいたっては、今後とも山から下りることがないのでは、と予感されるし、それに対しては、けして否定の表現になっていないからだ。どこまで意図されているのかはわからないが、切りとられたひとつの場面としては美しく、いや、ま、この作者のマンガはいつも雰囲気重視で結末における印象が曖昧な節があるにしても、ここまで出口のない風景が描かれるというのは、良くも悪くも異様である。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(07年)
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