
減量が苦手なボクサー畑中耕作と純粋な修道女(シスター)アンジェラの、あまりにもあまりにもスローな恋愛劇を描いた高橋留美子の『1ポンドの福音』が、ようやっと完結した。最終話はまだ『週刊ヤングサンデー』に掲載されてから間もないので、むしろ98年と01年に発表されたエピソードがこの4巻に収められ、ひさびさに読めたことのほうが嬉しいのだが、そこ(P49の上段)に、とあるマンガを模したカットがあり、もちろん何げないパスティーシュでしかないと済ませてもしまえるのだが、しかし思わずはっとさせられるのは、その元ネタが『あしたのジョー』であったからだ。ここで話は大きく飛躍する。あだち充の『タッチ』が『あしたのジョー』のオマージュであるとの指摘は作家の酒見賢一によって為されているけれど、ところで『タッチ』には、あだち以外のふたりのマンガ家の、代表的な作品の登場人物がそのままで出てくることはよく知られている。誰と誰のマンガかといえば、そう、高橋留美子と島本和彦である。ササキバラ・ゴウは『〈美少女〉の現代史 「萌え」とキャラクター』という新書のなかで、おおまかに、たとえば『あしたのジョー』に代表されるような70年代までの少年マンガでは信じられていた価値や根拠の失われた結果、男性主人公の挙動はヒロインの存在によって振り回されるようになり、80年代のラブコメブームが到来し、そのなかで代表的な作家であったあだちや高橋はそうしたことに自覚的であった、と述べている。もちろん、背景には当時の『週刊少年マガジン』とは異なる路線を模索する『週刊少年サンデー』編集部のライバル心があるのかもしれないが、ここで胸に留めておきたいのは、おそらく、先行する世代の代表作である『あしたのジョー』という作品が、あだちや高橋といった後発のマンガ家の意識に、その表面的な作風とは異なるレベルで、じつは深く影響していたのではないか、ということである。先ほど名前を挙げた島本和彦は『あしたのジョーの方程式』(ササキバラ・ゴウ編)で、『あしたのジョー』の白木葉子は、力石にできなかったことをジョーにやらせようとしていた、と推測しているが、これを変形させたところに『タッチ』の、南と和也と達也の関係が成り立っていることは明らかだといえる。さて『1ポンドの福音』に話を戻すと、作中における最後の試合、それまでただ軽いだけの性格だった畑中は、シスターの借金を返済するため、シリアスに戦う決意をする。それをホストを副業とする対戦相手は〈抱けもしねえ女のために…こいつバッカだなー〉と思うわけだが、ここにはまさしく、前提として肉体関係がないという意味合いにおいても、あのヒロインのために行動する主人公という図式が顕在化しているといってよい。しかし、これに対してヒロインが〈私のためとか、お金のためとか…間違っています。自分のために闘わなければ…〉と言ったことで、主人公は〈俺が闘う理由〉について、ひとたび頭を悩まさなければならなくなる。『あしたのジョーの方程式』において、ジョーが勝てなかった試合というのはすべて白木葉子が途中で逃げだそうとしていた、という島本の指摘を受け、インタビュアーのササキバラは〈見方によっては、ジョーのあしたが潰れそうになると、思わず葉子が逃げ出すという構図にもなっていますね〉と発言しているが、『1ポンドの福音』のクライマックス、あくまでも愛のためにとの覚悟で主人公が臨む試合の行方は、そのような構図を、あたかも正反対の方向から捉まえ直し、乗り越えようとしているかの印象を、まあ過渡な曲解といわれてしまうかもしれないが、受ける。