ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2007年03月05日
  鏖みなごろし

 三宅乱丈がマンガ化した『鏖(みなごろし)』の単行本に併せて収められた阿部和重の書き下ろし新作小説「くるみ割り人形」は、阿部という作家の卓越した批評性が凝縮された短篇となっている。しごく簡単にいえば、14歳の少女ユリがクリスマスの晩に経験した悲惨な出来事をまとめた都市伝説「十四回目のクリスマス」の、その続編が、作中の人物によって作中の人物に語られる、というものなのだけれど、おそらくは作中の人物によって作中の人物に語られている内容が、作外の我々に読まれ、なんらかの解釈が施されることを射程に入れたうえで、作者がこれを書いているのだろうというのは、たとえば作中において「十四回目のクリスマス」がなぜ大勢を惹きつけるのかをめぐり〈不在(潜在するはず)の正解の在り処(顕在化)を求めて、彼あるいは彼女らは、ひたすら分解と添加の作業に精を出す。そこで見出されるべきひとつの「理」が、陽に透かしたり炎で炙ったりしなければ表面化され得ないという前提が信じれている限りにおいて、一篇を、あの手この手で読み解こうとする好事家が絶えることもない、というわけだ〉と述べられるところや、ひとつの物語をベースに語り手そのものが次々にスライドしていく構成からうかがえもするのだが、要するにそれはこうも言い換えられるのではないか。あらゆる解釈が正しくない程度には、あらゆる解釈に間違いはない、と。この「くるみ割り人形」が持つ三宅版「鏖(みなごろし)」へのアンサー的な意味合いを、そういったふうに、あくまでも解釈のひとつとして、解釈することもできる。ところで「くるみ割り人形」には、阿部の近作でいえば、『グランド・フィナーレ』や『ミステリアスセッティング』の意匠を受け継ぐかのように、姉妹ともとれる、ふたり組の少女が登場し、進行上の重要な役回りとつとめている。すなわち、それらの延長線上にあるともいえるわけだが、『ミステリアスセッティング』の評で、少女を主人公に置いたため、その少女に何らかの救済をあたえるべく、阿部は、以前とは異なるパターンをとらざるをえなかった、みたいな解釈を石川忠司や佐々木敦等々がしているが、ここではより率直に、あくまでも語り手の話す物語のなかでという註釈つきになるけれど、ラスト間近で希望に近しい感触が与えられている。

・その他阿部和重に関する文章
 『ミステリアスセッティング』について→こちら
 『課長 島雅彦』について→こちら

 『シネマの記憶喪失』について→こちら
 『阿部和重対談集』について→こちら
 『青山真治と阿部和重と中原昌也のシネコン!』について→こちら


posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(07年)
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