ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2007年02月27日
 シネマの記憶喪失

 阿部和重と中原昌也の対談『シネマの記憶喪失』は、『文學界』の連載をまとめたもので、いちばん最初にアナウンスされているとおり、そもそもは「映画覚書」という阿部の映画評を対談形式にリニューアルした内容なのだが、現在は、阿部が抜け、かわりに毎回異なったゲストを中原が迎える「映画の頭脳破壊」というコーナーへと、さらに変更されている。企画は残り、ホストが変わる、というのは、まるでテレビのトーク番組みたいだけれども、話し合われていることの中心は、ここにも登場している樋口泰人が司会をつとめ、青山真治や黒沢清、塩田明彦、安井豊らに、阿部和重を加えて、99年に行われた座談会『ロスト・イン・アメリカ』(00年)にまで、おそらくは遡れる。たとえば『ロスト・イン・アメリカ』のなかで、阿部は、映画『トゥルーマン・ショー』を例に〈あのドームの中には、無数の隠しカメラが設置されていますよね。隠しカメラが撮った映像っていうのは、ぜんぜん統覚がない。遍在する神の視線と言ったらいいでしょうか(略)そういった、統覚の欠いたカメラの視線と、それを誰が統御するのかという闘争の物語は、80年代前半にもいくつか作られていたように思います〉といっており、この、統覚の喪失(消失)、つまり視点または視線が複数であるために責任の主体が曖昧かつ不明瞭にならざるをえないことは、むろん物語の在り方と密に関わり合っているわけだけだが、では、なぜに統覚が喪失されなければならなかったのかというと〈しかしなにしろハリウッド映画の物語展開のパターンは限られていますから、主題が見えにくくなっていけば当然、構造だけがどんどん表面に出てきてしまう(略)そうなってしまえば後はもう構造それ自体をひたすら組み換えていくしかないわけで、必然的に破綻にも追い込まれる。アメリカ映画を統覚の消失へと至らしめたひとつの契機は、この過剰な構造の組み換え作業なんじゃないかというようにも思える〉として、その根本には、冷戦の構造が崩れ、対立関係みたいなものを設定しにくくなったため、歴史そのものを直線的に語りにくくなったことがあるのではないか、との推測が行われるのだけれども、『シネマの記憶喪失』では、その統覚が喪失されたあとに、むろん9・11というモーメントがあり、そうして視線あるいは視点がどこに宿ることになったのか、が語れている感じを受ける。思いっきり極端にまとめてしまえば、幽霊やゾンビを含め、死者ということになるのではないだろうか。じっさい、クリント・イーストウッドが監督した『ミリオンダラー・ベイビー』を取り上げたさい、〈自分が見ていないはずのことまで語ってしまう〉語り手であるモーガン・フリーマンの存在はあたかも幽霊のようであり、そこが良い、との意見で阿部と中原(とゲストの青山真治)は一致しているし、ほかの映画に関しても、すでに死んでいるものの見ているシーンとして、解釈され、言及されている箇所は少なくない。また阿部が、疑似ドキュメンタリーの類を嫌っている旨を何度も口にするのは、それが、統覚の喪失を素朴に再現しているに止まるからなのだろう。9・11を直截的に描いた『ユナイテッド93』について、阿部は〈この映画が何とか成り立っているのは、あの事件で実際どういうことが起こったのかが機内の様子も含め、既に多角的に報じられているからなんだよね(略)そういった報道されてきた事実の記憶を追認しているに過ぎないというか。それはもう映画とはいえないでしょう〉として、さらに次のように言っている。〈事実をすべて記録しようとしてカメラをそこらじゅうに仕掛けたとしても、それらを全部見通すことなんてできない。われわれの視線が届かないとこなんて幾らでもあるわけだから〉と。先ほど述べたように、その、けして見えないものを込みで物語として語りうる存在こそが、ここでいうところの死者にあたるのである。

 『青山真治と阿部和重と中原昌也のシネコン!』について→こちら

・その他阿部和重に関する文章
 『ミステリアスセッティング』について→こちら
 『課長 島雅彦』について→こちら
 『阿部和重対談集』について→こちら

・その他中原昌也に関する文章
 『ISHIDAIRA』について→こちら
 『ボクのブンブン分泌業』について→こちら
 『待望の短編集は忘却の彼方に』について→こちら
 『キッズの未来派わんぱく宣言』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(07年)
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