ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2007年02月25日
 キリン

 少女を主人公とする恋愛の物語に、両親が離婚するしないの問題が導入されがちであるのは、それが作品に今日的な生活感を付与するからだという必然もあるのだろうけれど、そのほかに、あるひとつの絶対だと感じられていた関係が壊れる、かつては蜜月であったものにも必ずや終わりが訪れる、といった認識が、主人公の目の前に提出されたさいの反応を描くことで、逆説または相対的に、彼女のなかのピュアというかイノセンスな部分が顕在化されるという効果を持っているためだ。たとえば、真実の愛というものが永遠に変わることのない想いを指すのだとしたら、それが保証されることは不可能なのかもしれない、が、しかし、では今こうして誰かに向けられる想いが、間違いなく真だと信じられるのはいったい何故なのか、と、このような経験則とは無縁であるがゆえに、無垢とも無知ともいえる青い懐疑の真下に、主体がぶらさがることとなるのである。山口いづみの『キリン』には、三篇のマンガが収められているが、そのうちメインの作品である「キリン」もやはり、少女の、内面の劇を扱うにあたって、両親の別れを発端にしている。母親が家を出て行って2年が経ち、父親との二人では広く感じられるマンションを引き払い、新しく引っ越した先で、同じアパートに住む不思議な雰囲気の青年、漠慎二と出会った高校生の冴木凛は、やがて、そののやわらかな印象に惹かれはじめるのだけれども、彼にはまだ想いを残したまま忘れられずにいる相手のあることを知る。そうした漠の存在と両親の離婚が、主人公の凛に〈……わかんない……大人の事情って何 そのせいで好きなのに別れて 嫌いじゃないのに 離れていって そのせいで……誰かが悲しい想いをして……そんなの難しくて分かんない〉との悩みを口にさせる一方で、彼女に対して恋心を抱く同級生の新との関係を、居心地はいいが、恋愛に発展させることはできず、だから今の状態が壊れないよう、彼からのアピールには気づかないふりをする、そういう自分の狡さにも気づいている。これらの諸事情が、凛の〈見ないフリをして受け入れようとしなかっただけ ただ漠然とそうしていれば 何も無かったかの様に 全て元に戻る気がしていて〉という消極性へ如何に関与するか、が作品の主題だといっていい。現実のなかで無傷なまま生きられるイノセントなぞ、たぶんどこにもない、けれど、いや、だからといって最早イノセントではないというだけで、不純であったり不誠実であったりの断罪が行えるものでもない。いくつかの出来事のあとで、凛が〈大人の事情には お互いの価値観がどうとか 経済力がどうとか そういうものが山積みで だけどもっと根本で 幸せになりたいとか 相手の幸せを願うとか そういう単純なものがあるのだと そう思ったら 少しだけ救われるような気がした〉と思うのは、おそらく、そのことに気づいたためである。ともあれ、以前までに比べると、絵柄と全体の演出に、どうもちょっと、いくえみ綾の作風を意識させられてしまうが、作者の良好ぶりを示した内容に仕上がっている。

 『恋愛幸福論』について→こちら
 『HAPPY DAYS』と『ビターチョコレイト』について→こちら
 『ロマンチストベイビー』について→こちら
posted by もりた | Comment(2) | TrackBack(0) | マンガ(07年)
この記事へのコメント
>あるひとつの絶対だと感じられていた関係が壊れる、かつては蜜月であったものにも必ずや終わりが訪れる、といった認識が、主人公の目の前に提出されたさいの反応を描くことで、逆説または相対的に、彼女のなかのピュアというかイノセンスな部分が顕在化されるという効果を持っている

このようなアイロニーをもつものが、まさにその核心を突くという構図はあるのかもしれませんね。ただ、僕は、宮台の言うような「アイロニーの空転に抗うために歴史を召還する」ような真似は決してしないつもりです。
Posted by 戸田修司 at 2007年03月03日 11:11
戸田さん。
そうですね。歴史を絶対化する(ように見せる)ことは歴史が希薄になる(と感じられる)のと同じぐらい、危険な要素を孕んでいたりするものですからね。
Posted by もりた at 2007年03月05日 14:17
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