ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2007年02月03日
 少年検閲官

 まさしく世界の終わりを取り扱ったデビュー作『「クロック城」殺人事件」の印象があるからか、北山猛邦の作品からは、終末感とでもいうべき雰囲気を覚えることが多く、またそれは、登場人物たちのどこか醒めた、いわば無感動的な造型ときつく密着しており、両者の因果関係、つまり背景と人為との相互作用を重ね合わせることで、その内容が成り立っているように思われるわけだ、が、そうしたことはこの『少年検閲官』にも共通した事象である。『少年検閲官』の舞台は、一種のパラレル・ワールドとでも呼ぶべき世界で、そこでは、書物の文化がまったく失われている。そのことが、我々の現実とは異なる既成概念を作り上げていて、要は、そういった落差が話の展開されるさいにミスディレクションの役割を担う。ここで注視したいのは、作中の人間にとってはナチュラルであることが、読み手からは欠損にも見えることだろう。たとえば次のような記述は、それを端的に知らしめていると思われる。〈僕たちの時代は、書物がない時代であると同時に、完璧な事実だけの時代とも云えるし、物語の不在の時代とも云える〉。書物がいっさい排せられているかわりに、人びとはラジオの情報を生活の基礎にしているのだが、すべての情報は政府の検閲下にあるため〈ラジオでは基本的に創作物は放送されない〉し、〈作り物に触れる機会をほとんど奪われている〉のである。もちろん殺人や犯罪がメインの題目である『ミステリ』に関わる項はすべて削除され、その結果、事件らしい事件は減少したことになっている。こうした状況設定が、逆に、謎解きの要素を『少年検閲官』のなかに盛り込んでいるのだけど、もう一方で、ひとつの思考実験に近しい読み応えをもたらす(というのは多分に大げさだが、まあ)。つまり、もしも殺人や犯罪が知識として存在しなければ、それらは起こることがないのか、あるいはそうではなくて、起きてしまったことが、たんに殺人や犯罪として認知されていないだけなのではないか、と。これは形を変え、もっとも重要なトリックとも関連される。ところで題名にある少年検閲官とはいったい何者なのかというと、文字どおり、少年の検閲官を指すのだけれども、それはこの作品のうちで、いうなれば名探偵の役目を果たしている。名探偵というのは、真実を見抜くがゆえに名探偵である以上、錯覚をしない。翻って、名探偵以外の者が錯覚に陥っている場合においてのみ、名探偵は特権的な存在になりうるのだが、もしかするとそれは、こうも言い換えられるのではないか。彼は、信仰やイデオロギーを含め、漠たるものに自分を預けない、したがって確たるものはぜんぶ、彼の内部ではなく、彼の外で起こったことのなかにある。むろん、このような人間が、事実のほかに抱え込むのは、静かなまでの空虚さであろう。「私は完璧な検閲官だが――心は失われている」と言う少年検閲官のエノが、ひとりでは外を出歩くことすらままならず、「一人では外に出られないけど、近くに人間がいれば問題ない。だから、クリス、君は常に私の手の届く範囲にいて欲しい」と、当面の語り手である〈僕〉に持ちかけるのは、なるほど、こうして探偵と助手の共存関係が結ばれるという趣向なのだが、しかし、じつに印象的である。

 『「ギロチン城」殺人事件』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(07年)
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