ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2004年07月21日
 ちょっと前に起こった事件によって抽出された、長崎+カッター+小学生という不穏なキーワードをそれ以前に先取りしてしまったのが、『新本格魔法少女りすか』なの(←登場人物の口調を真似てみた)。ちきちきちきと刃を迫り出すカッターナイフのつけた傷が少女のなかの魔法を発動させる。ぜんぶで3話収録されているけれど、さいしょの2話(つまり『ファウスト』掲載分)に関しては、救いがない、といってしまって良いかもしれない。ただし、そこで救われないのは、隣人が失われてもその危害は自分には及ばない、平穏な日常がいつまでも続くと感じる想像力の足りない、小説中の言葉に即していえば〈鈍感で無神経な連中〉であって、そのような世界を外側から見るような「きみ」と「ぼく」の関係においては、ここで人が無慈悲に殺されること、無意味に人が死ぬこと、見殺すこと、それらのすべてが罪と罰の名目の違いはあったとしても、お互いに価値のある結びつきをもたらす、重要なファクターへと転じている。
 単純にこの小説のおもしろさは、登場人物の性格も含めて、マンガ『デスノート』と同様のカタルシスによってもたらされているように思われる。一般的なモラルに則れば、主人公たちの行いは、けっして正しいものではないけれども、社会化された正義や悪がもはや、それほどの説得力を持たない現在では、このようなごく個人的な正当性からの一撃が現実を穿つ、カウンターのような役割を果たすものだけがエンターテイメントとして機能するのかもしれない。とはいえ、『デスノート』がファシズム的な自信でもって主人公を際立たせているのとは違い、ここでは、そうした個人的な正当性を支えているのは、3話目で明かされるように、あくまでも「きみ」と「ぼく」がともに在る、そうした関係性によってである。少年と少女が作り出す、いわば私的領域とでもいうべきものが、この世界のありとあらゆる不運を退けている。
 西尾維新のほとんどの小説がそうなのだが、登場人物はけっして、自分はこの世界の一部である、とはいわない。なぜならば、そのように認識することは、彼らのどのような行為も、やがて世界に吸収され、内側に捕えられ、結局のところ、その下位に属してしまうことなのであって、そこでは、ある行為が世界を変える、あるいは越えるという可能性が、奪われることとなるからである。なので、もしも、この小説が残酷さのなかに伝えるものがあるとしたら、それは優しい救済ではなくて、受け入れるには過酷かもしれないが、しかし、たしかに存在する希望だろう。

「だから、ぼくが……ことの頑張り方って奴を、教えてやってるのさ。教えてやらなくちゃ……ならないのさ」
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書。
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