ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2005年04月29日
 ホーリーランド 10 (10)

 子供世界と大人世界の間 そこにホーリーランドは存在する 甘やかな暴力のリアルが支配する 隔絶された世界 その世界に――はいた 神代ユウ ・は確かにそこにいた

 単行本の全巻に付せられている序文(強・箇所は原文ママ)。おそらく、それがこのマンガの骨格である。「子供」、「法」、「暴力」、そして「・」=「ユウ」というのは主人公であり、これらのタームは、ヤンキー・マンガを支えるものでもある。そういう部分を捉まえて、僕はこれをヤンキー・マンガのいちヴァリエーションだという風に解釈している。

 が、しかし、物語の細部をみれば、完全にヤンキー・マンガと合致するものではないことも了解しているつもりである。たとえば、この巻における登場人物の言葉を借りれば、「玄人(格闘技)対不良(ヤンキー)狩り」というように、ヤンキーと対峙する主人公は、さらに格闘技実践者と敵対することになる。しかし、このような構図には前例がないわけではない。他にもあるかもしれないが今ぱっと思いつくのは、『赤×黒』(上條淳士)、『1 イチ』(山本英夫、『殺し屋1』の前身)などが、90年代に存在している。それこそイジメられっ子が主人公である後者の在り方などは、『ホーリーランド』にかなり近しいものだろう。

 反面、やはりそれはヤンキー・マンガと相似であるような、モラトリアムの戯れであると思うのだ。現在、ヤンキー・マンガが抱え込んでいる困難さとは、高校を卒業したあと、つまり社会に出たとき、もしも汚い大人になることを拒むのであれば、では、どのような生き方ができるのか、といったところまで射程に入れてしまっている点である。

 80年代ぐらいだったら、アメリカに渡るとか、なんか知らんが社会的に地位のある職業に就いてたという解決策が、ぽんと提出され、それなりの説得力を持っていたわけだが、90年代以降には、そういった着地点は用意されていない。それはたぶん、時代背景のせいだと思うが、リアリズムであるかどうかとは異なったレベルで、表現として説得力を欠くのだ。同様の困難さは、この『ホーリーランド』のなかにも必然的に梱包されている。そのことは、並行して内面の問題、ネガティヴさをどう扱うかといったことをも浮上させる。

 主人公ユウは、だいぶ鬱屈した性格の持ち主である。先に『1 イチ』の名前を出したが、もしもユウがほんとうにストリートで生きるのであれば、その先には『殺し屋1』のような地獄が待っているのだろう。あるいは、格闘技を実践していったところで、『軍鶏』(橋本以蔵・たなか亜希夫)の主人公リョウがそうであるように、アンダーグラウンドに落ちてゆくしかない、ということもありうる。それは幸せなことなのかな。

 これをどのように解決するのか。この線で考えたとき、僕は今のところ『GOLD』(山本隆一郎)がもっとも解答として正しい、と思っている。のだが、しかし、友情が光のまま残されている、この『ホーリーランド』もまだ、ひとつの可能性としての機能を果たしている感じがする。それはつまり、敵とはべつの形で他者がマンガ内部に存在している、ということだからだ。そのような意味で、次巻以降の展開が気にかかる。
 
 8巻についての文章→こちら
 9巻についての文章→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(1) | マンガ。
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