ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2004年07月20日
 つい最近まで僕は、よしもとばななの熱心な読み手のつもりだった。けれども、たぶん「吉本」が「よしもと」になったあたりから、どうもそれほど引きつけられることがなくなってしまった気がする。
 その要因として考えられるのは、ある人たちが村上春樹の小説を読んで、これはモテる男の話だと感じることがあるように、よしもとばななの小説もまたモテる人間しか扱っていないじゃないかと、寂しがりやの僕は妬むからなのだった。
 というのは嘘である。
 じっさいには、かつては限定された事柄を扱っているようでいて、じつは普遍的な事柄への拡がりを持っていたものが、今では、普遍的な事柄を扱っているようで、じつは閉ざされた空間にまとまっていく、そういう感じを受けるからなのだった。もうちょっと言い換えて、以前の作品でいうならば『TUGUMI』のイジ悪さは、最終的には優しい読後感を残すが、最近の作品は、なんとなく逆のような印象、ある意味では残酷な、特定の人間にだけに向けられた恣意の優しさが作られている、そういうような印象を僕に与えるのだった。
 それはおそらく、平仮名の使われ方に現われている。本来ならば、漢字で表されたほうが読みやすい場合でさえ、平仮名として綴られるのは、無意識からやってきたことではなくて、あくまでも作者の、そういう風になにかしらかを構築しようとする意識が、そこに含まれていることを示唆している(以前はここまであからさまではなかったと思われる)。あるいは、それを自然だとする層があるのかもしれないけれど、僕はそこにはいけない、というのが僕と今のよしもとばななの小説との距離となっている。
 登場人物たちは、いっけん自分たちが世界という存在を認識し、そこに内在しているという感じで生きているみたいであるのだけれど、そうじゃなくて、単純に、彼女たちは世界そのものの存在を対象化することを拒んでいるだけなのである。では、なぜ世界だなんて言い出すのだろうと、そのことを訝しがる僕がいる。
 とはいえ、この小説のラスト・シーンはちょいとうつくしすぎる。それはちょうど作品のなかで、ふたりの女性がある夏に見た世界の明るさと等しいものだと思うと、その瞬間だけは、ああ、やっぱりよしもとばななの小説の良いところはここだな、と感じることができるのだった。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(1) | 読書。
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