ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2013年01月30日
 ばぶれもん 1 (ジェッツコミックス)

 さあ、無礼講をはじめよう。奥嶋ひろまさ、同時リリースとなった『アキラNo.2』の1巻と『ばぶれもん』の1巻は、どちらもギャグの方向にフルスウィングした内容となっていて、思い切ったな、と感じさせるのだったが、とりわけ後者である。なぜかここ最近、たとえば柳内大樹は『新説!さかもっちゃん』で、加瀬あつしなら『ばくだん!〜幕末男子〜』で、といった具合にヤンキー・マンガ家ゴーズ・トゥ幕末的な作品を見かける機会が少なくはなかったのだけれど、奥嶋の『ばぶれもん』もそこに加えられるだろう。副題には「最強ヤンキー幕末画録」とあるとおり、近代化を目前にした景色のなかでヤンキイッシュなボーイズ・ライフが描かれている。

 今どき喧嘩上等で最強を目指す千葉竜平には居場所がなかった。23区の不良少年を片っ端から倒しても、ただ白けた目で見られるだけであった。十代が短く、限られたものであるなら、せめて熱く生きたかったのである。タイマンを挑んだ相手にさえ〈生まれてくる時代間違ったんじゃねぇか?〉と言われる。だが〈何の志もなく ぐずぐず日を送るは実に大馬鹿者なり〉という父親譲りのポリシーをねじ曲げるつもりはなかった。それがいよいよ東京制覇を果たそうとしたとき、恨みを晴らそうとする連中に取り囲まれ、リンチされた挙げ句、頭部に鉄パイプを受けて意識をなくしてしまうのだった。さすがに死んだ、と思った。〈志半ばで俺は死んだのか?〉と思った。しかしどうしてか。左肩に入れた家紋のタトゥーと何か因縁があるのか。時代を越えた文久元年(1861年)の土佐で目を覚ますこととなる。

 要するに、現代のヤンキーが幕末にタイムスリップし、当時の歴史的な状況に介入していくというのが主な筋書きであって、まだ龍馬が世に出ていない坂本家に匿われたことから尊皇攘夷の激動に関与せざるをえなくなるのだ。が、最初に言ったように、作中のテンションはギャグの方向に振り切れていて、シリアスなパートはかなり控えられている。土佐藩における身分制度の厳しさは、普通、坂本龍馬の青春に光を当てたフィクションでは暗いイベントとして扱われがちなのだけれど、『ばぶれもん』の場合、下士と行動をともにするヤンキーの主人公が公衆の面前で上士にタイマンをふっかけちゃうもんね。ある種の無礼講をカタルシスにしているのである。これは考証がどうというより、ギャグあるいはパロディのマナーを強めに採用しているためだろう。主人公のセリフには幕末を舞台にしたタイムスリップもののヒット作『JIN -仁-』に関する言及がうかがえるし、つのだじろうや楳図かずおの絵柄を模したカットを積極的に取り入れているのは、読み手がどこまで許せるかを試しているサインなのだと思う。

 いずれにせよ、やりたい放題なところがある。無論、幕末の運動が本格化するにつれ、ギャグでは乗り切れない部分が出てくるのかもしれない。必然としてシリアスなパートが増えてくるのかもしれない。現在は後の展開にショックを作るための準備段階にすぎないのかもしれない。だってどれだけコミカルに描かれようと武市半平太はやっぱり悲しいでしょう。かの『おーい!竜馬』でさえ、初期はのんびりしてたもんな、であろう。だが、前近代のルールを直接ぶち壊しかねない主人公の無茶苦茶ぶり、ギャグでしかありえない行き過ぎこそが『ばぶれもん』の大きな魅力となっているのである。

 第一、未来からやってきたことをまったく隠していないのが無茶苦茶である。そして、主人公が未来からやってきたと吹聴するのを他の登場人物たちがあまりにも素直に受け入れていることに対し、ツッコんではいけない。それは野暮ってもんだろう、と退かせる強引さがあるのだったが、実際に幕末の有名人を坂本龍馬しか知らないヤンキーがそこでできることといったら、i Podを使って龍馬の甥である高松太郎にザ・ブルーハーツなどのロック・ミュージックを聴かせたり、土佐勤王党の志士に『ドラゴンボール』のストーリーを広めたり、サッカーを教えたり。タイム・パラドックスお構いなしにしても、極めてしょぼい。しかしそれは今日性の反映であり、その現代をなぞらえた主体の持ち方と封建社会にまで遡った主体の持ち方との対照において、もしくは両者のあいだに共通項を探り当てることで、ギャップのギャグが表されている。と同時に、男子たる者かくあるべし、な生き様系のエモーションがもたらされているのだ。

 それにしてもまた坂本龍馬だ。柳内大樹の『新説!さかもっちゃん』や加瀬あつしの『ばくだん!〜幕末男子〜』の例があるように、ヤンキー・マンガ家ゴーズ・トゥ幕末的な作品とアプローチは決して珍しくはないのだけれど、必ずや坂本龍馬はアウトサイダーという意味で不良少年のアティテュードと一致し、さらにはスケールのでかいカリスマとして現れてしまう。ヤンキーと坂本龍馬がどうして通じ合うのか。ちゃんとした考察が待たれるが、これはおそらく司馬遼太郎の『竜馬がゆく』によって一般化されたイメージ、そしてそれは消費社会に並行して学歴や出世の問題がトピックとなりつつあった1960年代(昭和三十年代)後半に発表されたことの影響を遠回しに受けている(石川忠司の『新・龍馬論』や浅羽通明の『昭和三十年代主義』、斎藤環の『世界が土曜の夜の夢なら』等を参照することが可能だろう)。

 さておき『ばぶれもん』では、1巻の最後になって、ついに坂本龍馬が出てくる。やはり、というか。フェンダーのストラト・キャスター型に改造された三味線(かな、弦が六本あるものの)を肩にかけたその姿はどこからどう見てもアウトサイダーの、カリスマの風貌であった。

・その他奥嶋ひろまさに関する文章
 『ランチキ』
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(2013)
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバック