ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2013年01月18日
 海の見える街

 畑野智美、またもや地方都市の憂鬱を掴まえる、といったところか。第23回小説すばる新人賞となったデビュー作の『国道沿いのファミレス』や続く『夏のバスプール』で郊外に特徴的なワンポイントを「○○の××」と題名に置いてきた作者である。三作目となるこの『海の見える街』では、同じく題名にそうしたパターンを踏襲しつつもいくらかイメージの広がりを与えており、実際、内容の方もこれまでのような主人公を一人の男性に固定したものではなく、四人の男女が入れ替わりながら主人公をつとめていくという連作のスタイルをとっているのだけれど、基本的にはやはり、地方都市における閉じた生活圏に安住を求めるしかない現代的な若者の実相を題材にしている。

 先にいったとおり、主人公は四人の若者である。皆、海を間近にした市立の図書館で働いている。所謂草食系に分類されるような何事も穏当に済ましてしまいたいタイプの本田や、オタク的な気質と垢抜けないため女性としてもてはやされない日野、クールで周囲からの信頼も厚いが実は女子中学生にしか興味を示せない松田と、そして自分が若い女性であることの優位を包み隠さず我が儘に振る舞う鈴木(春香)が、それぞれの視点で、それぞれの時系列で、単なる同僚を越えたライン上にお互いの存在を認めていくことの結果が『海の見える街』の全景を作り出していて、無論、そこには友情や恋愛に発展しうる関係が含まれる。なかには三十代の人物もいるにはいるが、しかしあくまでも若者のヴァリエーションとして語り手を任せられている点が肝要だろう。

 松田に関しては少しばかり条件が異なっているものの、各人の生活において小動物との接触が欠かせぬ場面となっている。このことは銘々のエピソードに付けられた題名に象徴されているのだけれど、それについてはさほど気に留めなくてよいかと思う。確かに、小動物の介入は作中人物の心を開かせるキーになっていると同時にミニマムな物語を動かすためのキーとなっているのだったが、結局のところ、今日に典型的な習慣が切り取られている程度のことなのである。むしろ、その典型的な習慣を各人が共有し、なおかつその典型的な習慣を通じて映し出された(これも典型的な)寂しさが、ストーリーの都合上、どのような帰結をもたらすのかに注意を払われたい。果たして、一見すれば口当たりのよい結末は本当にハッピー・エンドなのか。

 北上次郎と大森望が『SIGHT』54号の「ブック・オブ・ザ・イヤー2012」エンターテイメント編の対談で『海の見える街』の結末を次のように評している。〈大森「(略)4章、どれも面白いんですけど、唯一の疑問はラストですね」北上「ああ、ああ。これ、この人の癖なんだよ、きっと。1作目の『国道沿いのファミレス』もそうじゃなかった?」大森「テレビドラマ的にね、めでたく収まってしまう。それならそれで全員うまく収めてほしかった」〉と。ここである。おそらくは「テレビドラマ的にね、めでたく収まって」いるところが、一見すれば口当たりのよい結末の、その印象に繋がっているのだが、深読みすればするほど、それは本当にハッピー・エンドなのか、という疑問を残すのだし、むしろリアリズムに由来する袋小路の決まりを覚えてしまう。

 一年間のおおよそを四人のエピソードに区切った物語の最後に訪れるのは、要するにロマンスという名の祝福にほかならない。身も蓋もない言い方をすると、単に一組の男女がくっついたにすぎないのだ。そして、それは地方都市の内部にとどまるしかない若者の、あるいは地方都市の内部を脱してもなお別の地方都市の内部に辿り着くしかない若者の選択であり、帰結として提示されている。もちろん、その帰結が妥協や挫折を意図した後ろ暗いものであったなら、小説の締め括りはここまでキラキラしたものとはならなかっただろう。『海の見える街』のロマンスは、間違いなく、狭い世界で自分が抱えた問題をいかに解決するかへの糸口となっているのであって、それがうまくいったことの例として最後にカップルが成立させられているのである。

 当然のことながら、うまくいかなかったことの例も存在する。四人の主人公を並べてみたとき、松田のとった選択は極めて異色だといえる。ナボコフの『ロリータ』をなるたけ正確に引用しながら日常の外側へあっさり飛び出してしまうのである。しかし彼は必ずしも悪人や犯罪者としては扱われていないし、四人のなかではむしろ真善美に最も近い立場でさえある。また、もしもその一編のみを取り出したなら、危ういがゆえに美しいロマンスを達成すらしているのではないか。だが、作品の全体像においては、平凡なロマンスの獲得の方にこそ幸福があるのだと強調する役割を果たしていく。つまりは地方都市の内部で普通に生きられることの価値を対照的に高めているのだ。

 誤解があってはならないのだけれど、そのようにして設けられた結末に不満があるのではない。そうではなくて、最初に述べたとおり、前作や前々作と同じく、地方都市における閉じた生活圏に安住を求めるしかない現代的な若者の実相をよく感じられるところに、この作者の何よりの特徴が出ているのである。『国道沿いのファミレス』も『夏のバスプール』も、ロマンスという名の祝福によって、筋書きはともかく、結末の印象が爽やかに変えられていた。反面、物語のその後を考えさせもした。大きな決心をした主人公たちはこのままずっとそこで充足した暮らしを送れるのだろうか。初々しいボーイ・ミーツ・ガールであった『夏のバスプール』は別としても、青年期の選択を描いた『国道沿いのファミレス』や『海の見える街』の場合、その問題は意外と根深いものだと思う。

 どれだけ平凡であろうとロマンスの獲得がハッピー・エンドの肩代わりをしている。これを批判するのは容易い。だが、それを否定してしまえば、現実の社会にあってもほとんどの幸福にケチがついてしまう。ある意味、『海の見える街』における松田の選択はネガティヴな語り口で拾われがちな郊外のイメージを踏襲しているといえる。しかし、それはもはや何十年も繰り返されてきた議論のステレオタイプを引きずっているにすぎない。これをいかに上書きするか。むしろ、残された三人の側のロマンスにその可能性は暗示されているのではないか。なぜなら、海が見えるか見えないかぐらいの違いしかよそとはないにしても、好きな人がそこにいるかいないか程度の違いでしかないとしても、この郊外を、この地方都市を肯定的に生きていく。こうした判断だけは誤魔化されずに備わっているのである。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(2013)
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