ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2007年01月11日
 『文學界』2月号掲載。『なんとなく、リベラル』という題が、あきらかに田中康夫の『なんとなく、クリスタル』をもじったものであるとおり、膨大とまではいかないまでも、相応の量の注釈が、あえて付せられた小谷野敦の小説であるが、内容は、筒井康隆の『文学部唯野教授』あたりの線を思わせなくもない、虚実入り混じった固有名を用いながら、アカデミズムの世界を揶揄するかのような、ある意味でコントラヴァーシャルなものだといえる。だいたい、次のようなやり取り、「あっ、スチュアート・ホールだ。これが主著なんですか? あっ、でもエディテッド・バイ(編集)だな……」「最近のホールは自分一人で本を書くことはあまりないみたいね」「ああ、そうなんですか。それで日本語の翻訳もないんですね」、こうした会話の機微を推量させる箇所が、作中には、けっこう多い。さて。話の筋はといえば、〈私が助手になったのは、なにも美人だからじゃない、と岡村朋は思った〉と、この岡村朋という女性の主人公が、年齢なら20代から40代のあいだ、それはちょうど90年代から現在までに至る時代を、いかに過ごしたか、これをおおまかに、大学院生または留学時代における恋愛、帰国して大学に勤めるようになってからの結婚、結婚生活や学内の人間関係または権力争いからくるストレスに悩まされ、いちおうは立場と余裕のある平穏な壮年期に入るまで、と、起承転結の四つに区切ることができ、そうしたなかに、社会状況と並行してカルチュラル・スタディーズの話題やフェミニズムの問題などが加味される。そうして物語的なクライマックスはやはり、9・11があり、それ以降に、国内の言論が「なんとなく、リベラル」になっていくことと主人公の気分が合致してゆくくだりなのだろうけれども、そのへんはわりと俯瞰して書かれているのに対して、全体におけるもっともエモーショナルな描写は、それ以前の段階、律神経失調症を患い、夫婦仲がこじれるへんにかかっており、おそらく作者自身の感情もまた、そこに重なり、強く出ているのではないか、といった気がしたが、ひとつの分野の世界をあくまでも図式的に描くことに執着されたフィクションだとしたら、逆に、瑕疵にあたりうる場面なのかもしれない。ところで「適当に平和主義を唱える、適当にフェミニズムの見方をする、適当に石原慎太郎とかの悪口を言う、万事なんとなく、だ(略)」といった具合に、わざわざ登場人物のひとりが指摘するぐらい、都知事に対する言及も少なくはない、こういう小説のすぐあとのページから、その彼と北方謙三の対談が掲載されているのは、まあ作外のことであるけれど、メモとして留めておきたい。

 『悲望』について→こちら

・その他小谷野敦に関する文章
 『新編 軟弱者の言い分』について→こちら
 『谷崎潤一郎伝――堂々たる人生』について→こちら
 『なぜ悪人を殺してはいけないのか―反時代的考察』について→こちら
 『禁煙ファシズムと戦う』について→こちら
 『帰ってきたもてない男――女性嫌悪を超えて』について→こちら
 『恋愛の昭和史』について→こちら
 『俺も女を泣かせてみたい』について→こちら
 『すばらしき愚民社会』について→こちら
 『評論家入門 清貧でもいいから物書きになりたい人』について→こちら
posted by もりた | Comment(2) | TrackBack(0) | 読書(07年)
この記事へのコメント
森田さん、今年もよろしく。日本の今の50代ならマルクス主義の解毒を、40代ならニューアカデミズムの解毒を、してきたのだと思うけれども、30代の研究者に多いカルチュラル・スタディーズやフェミニズム、ポスト・コロニアルも、マルクス主義的な体制批判が尾を引いているのであって、それらのアプローチを40代の小谷野がある意味馬鹿にしているのも何となく分かる気がします。もっとも、9.11でものの見事に世代を超えたこれらの人間学的なものの見方がようやく失効されたのかもしれませんが。
Posted by 戸田修司 at 2007年01月12日 10:17
戸田さん、どうもです。
人間科学的なものの見方が失効されてきたというよりは、確たるイデオロギー(のようなもの)を背景に置くことができなくなり、より細分化されてきた結果、一個一個の影響力が弱まったということはあるかもしれませんね。
Posted by もりた at 2007年01月12日 16:10
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