ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2005年04月23日
 「別れる理由」が気になって

 上野千鶴子は、江藤淳『成熟と喪失』の解説で、『成熟と喪失』を通じて小島信夫『抱擁家族』に触れた、と書いている。坪内祐三もまた本書のなかで〈『成熟と喪失』を読んで、『抱擁家族』に興味を持ち、その作品に目を通した〉といっている。そうした事実はもしかしたら、『成熟と喪失』という批評が、批評対象であるはずの『抱擁家族』と並列されるような、同じ重量、あるいはそれ以上の重きがある作品として仕上がっていることを、言い表している。

 さて。どうやら、ここで坪内がやろうとしているのは、江藤が『成熟と喪失』で『抱擁家族』により試みたのと同じように、小島信夫『別れる理由』を用い、この国のある時代、空気を目に見える形で切り出すことである。が、しかし同時に、江藤がフォニーとして批判したものを抽出し、それを肯定の向きから捉え直すことでもあるようだ。じっさいに江藤が『自由と禁忌』のなかで行った、『別れる理由』の読みと、真っ向から対決する箇所がいくつかある。おもしろいのは、そのために坪内は〈現実に私が生きている時間〉と〈『別れる理由』の作品世界を流れる時間〉それから〈『別れる理由』という作品が『群像』に発表されていったその時間〉を同時進行で検証するという、ややアクロバティックな読解を行っていることである。また、そうすることで本来『別れる理由』という小説が含み込んでいる奥深さ、それはつまり、小説というジャンルが持っている優位性と、坪内の文学へ対する愛着とを、これでもかという具合に、こちら読み手に味わわせようとする、そういう体をとっている。

 ところで僕は、これを『群像』掲載時に(やや斜めにだが)リアルタイムで読んでいた。だから坪内的にいえば、僕が生きていた時間と、「『別れる理由』が気になって」のなかで流れる時間イコール坪内がある時代を検証する時間と、この「『別れる理由』が気になって」が『群像』に掲載されていった時間を、この本によって再確認したことになる。もうちょいいえば、坪内が『en-taxi』に発表していた『アメリカ』と、この「『別れる理由』が気になって」あるいは坪内が近い時期に書いたいくつかの文章との間に存在している、ある共鳴を、あらためて見て取ることができた、ということだ。そしてそれは、江藤がいったフォニーあるいはアメリカあるいはサブ・カルチャーを、べつのベクトルからべつの視線で見るべつの世代の人間が、変容し続けるこの国で、いかにして生きてきたかという事実証明に近しいものである。

 最後に、どうでもいいかもしれないことをひとつ。高橋源一郎が『文学なんかこわくない』に収められたある文章のなかで、小島信夫の『漱石を読む――日本文学の未来』について、次のようにいっている。

 小島信夫という人は、『明暗』を最初からどんどん引用した。それから、それについて、どんどん論じた。しかし、いくら論じても止まらなくなっちゃった。そりゃそうだ。いい小説については、ああもいいたいこうもいいたい。しかし、それだけならば、ただの評論家と変わらない。小島信夫という人はあまいにも真剣なので、自分の意見もいい、それからそれが絶対に正しいとはいいきれぬので、その反対意見を捜し、それからまた自分の意見と反対意見の中間を捜し、そういう意見がなかった場合には自力で、可能な限り意見やら感想やらを考え出してみさえした。それを、『明暗』という小説のあらゆるところでやってみた。 (中略) その結果として、それは元の『明暗』より遙かに長い評論に、まるで弁当箱みたいにでっかい本になっちゃったのである。

 高橋源一郎「『恋愛太平記』はバカでも読めるか?」(『文学なんかこわくない』)


 おそらく坪内が、この連載で達成したかったのは、じつはそれと同じようなことなのでなかったか、と、僕は思う。正直、ひとつの長めの評論として見た場合、読み苦しい部分は多々あるけれども、しかし、それでもぜんぜん短いのだ。言いたいことが言い切れていないような読後を覚える。結びの言葉などは、まるで打ち切られたマンガのような尻切れ感を残している。とはいえ、まあ、ここで言い残されたいくつものことは、べつの仕事へとフィードバックされていくのだろう。それはたぶん、初期の村上春樹を本格的に論じたものになるはずだ(願望)。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書。
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバック