ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2005年04月22日
 『メフィスト』05年5月号掲載。『タマシイの住むコドモ』が『ニンギョウのタマシイ』の続きであるように、どうやらこれ、『コドモは悪くないククロサ』は『タマシイの住むコドモ』の続きであるようだ。しかし、このシリーズ、雰囲気は悪くないのだけれども、実験をしているのか、それとも素なのかは知らないが、いずれにせよマスターベーションぎりぎりの中身というか、そういう意味では、西尾維新の本質に寄ったものなのかもしれない。たとえば、それは「まさか」を「真逆」と、「なるほど」を「成程」と、「レベル」を「レヴェル」と、「そこ」を「其処」と、「ここ」を「此処」と記述するようなセンスにも現れている。サブ・カルチャーを経由した、フェイクとしての文学性。いや、けっしてくさしてるわけではない。そのような現れ方をしなければならないリアリティというのが、この時代にはある、と僕は思っている。今朝〈私〉が食した私の脳髄のスープ、あれが〈私〉の喪失感そのものだったのか。十一番目の妹が、5年振りに眠りから目覚めた〈私〉に、来客があることを告げる。十一番目の妹が言うには、来客者は玄関口で待っているということだったが、十四番目の妹によれば、来客者は勝手口にいるらしい。はたして扉の外で〈私〉を待っていたのは、あの熊の少女だった。基本的には、青臭いレトリックの羅列によってストーリーは進行してゆく。〈でも失ったことを自覚している時点で、それは本来、失ってすらいないのですよ〉と熊の少女が言えば、〈私〉はなるほど〈喪失感を失うという感覚、その重言は、言葉が重なっていなかったところで矛盾なのだ〉と思う、といった具合に。そうして、すべて言葉は空疎である。しかし、その空疎な言葉の集積として、なにか、達成されなければならないものがある、という意思が、ここには宿っている感じがした。ただし、それは作品の出来を保証するものではないけど。

 『ニンギョウのタマシイ』についての文章→こちら
 『タマシイの住むコドモ』についての文章→こちら


posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書。
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