ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2012年12月17日
 月と太陽のピース(3)<完> (講談社コミックス別冊フレンド)

 今までの作品に比べると(あくまでも比べると、ね)案外ライトな内容を持ち合わせ、いくらか新境地をうかがわせていた『月と太陽のピース』だけれど、この最終巻(3巻)に入って、やはり吉岡李々子らしいスタイルに帰着した。スモール・サークルをベースにした青春劇が爽やかに繰り広げられていくかと思いきや、不幸を背負った人間が恋愛に救われるというメロドラマの様式へ転換するのである。

 親友であるコマキのため、同じ地学部のホマレと付き合う「ふり」をすることになったミミだが、しかしその気持ちはホマレの従兄弟であるイノリに対してなおも揺れ続けるのだった。と、いやはや、そこでわりとあっさりコマキが本筋から外れしまい、ミミとホマレとイノリの三角関係が前面に出ることで、物語はメロドラマの様式に定まっていくのだけれど、注意されたいのは、ミミとイノリのラインを強化するにあたり、この手のラヴ・ロマンスによくある手順が2パターンもとられている点だろう。

 一つには、迷子になっていた幼児を恋人ではない男女が共同して保護するというものであり、もう一つは、不慮のアクシデントが恋人ではない男女を旅先に一泊させるというものであって、大抵の場合、前者は擬似的にカップルもしくは夫婦のイメージを導き出すわけだけれど、『月と太陽のピース』では、それがイノリの意外な表情をミミに覗かせる成果をあげている。他方、実は『月と太陽のピース』において、前者と後者はワンセットになっている。前者を経ることで、後者のなかにイノリの家族に関する重大な告白が「流れ」として生まれているのだ。

 後者のパターンは、それこそ夏目漱石の『行人』にさえ見られる男女の正念場にほかならない。差し向かいにならざるをえない状況に閉じ込められた一対の関係が変則的に実存の比喩となりうるとき、同様のシチュエーションによって『月と太陽のピース』のイノリがミミに自分の秘密を明かすこととなるのは必然だという気がしてくる。そして、結局のところストーリーは、互いに遠慮しながらもミミに強い好意を抱くホマレとイノリのどちらが選ばれるのかをクライマックスとし、三角関係に決着をつけようとする。

 前作『白のエデン』で、それ以前の『彼はトモダチ』における主要人物を登場させていた吉岡だが、今回もとある場面で『彼はトモダチ』の主要人物をゲストに採用している。それは作者の愛着であるのかもしれないし、ファンへのサービスであるのかもしれない。しかし、彼らが初出時よりも大人として成長していることを踏まえ、別の解釈も充分に許されると思うので、私見を述べたい。

 彼らはつまり、かつては悩み多き未成年であった。未成年であるがゆえの試練をメロドラマとして引き受けなければならなかった。だが、その後、確かに幸福を得られた。幸福を得られたことと大人になれたことの実感が正しく結び付いているので、おそらく次のように若い世代へと教えられる。それだけの資格と役割を負っている。〈あのね どんな子供でも意味があって生まれてくるんだよ それがわかってれば みんな幸せになれるんだ キミだってそうだ 生まれてきた意味がちゃんとある〉

 無論、作品をどうにか畳まなければならない都合もあったのだろう。物語の進行からすると、上記の場面はいささか唐突ではある。けれど、後半のメロドラマ化が何に由来しているのか。生きる意味を教えてくれる者とそれを教えられる者というテーマの顕在に拠っているのは疑うまでもない。その上で祝福を描くこと。これについて決して漏らせない手続きになっているのだし、エンディングに用意された感動はまず間違いなくそれと呼応している。

 1巻について→こちら

・その他吉岡李々子に関する文章
 『白のエデン』
  2巻について→こちら  
  1巻について→こちら
 『彼はトモダチ』
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『99%カカオ』について→こちら


posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(2012)
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