ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年12月28日
 吉田聡の『荒くれKNIGHT 高校爆走編』、そのラスト・シリーズにあたる「黒い残響」をまるごと収めた完結の11巻であるが、ああ、そうか、こうして最終回までの道のりをまとめて読めば気づかされるものもあるな、と思うのは、そもそも前シリーズ「ROAD TO STARDUST」から「黒い残響」にかけては、主人公である善波七五十の出番がすくなく、あくまでも周囲の状況整理が行われ、そうして全部の物語が閉じられるさい、善波ではなく、その彼をライバル視する伊武の台詞が幕引きの役割を担うことに、もちろんエンターテイメントをたんに鑑賞するのとはべつのレベルで、どう解釈すればいいのか、初読時には悩ましいところもあったのだが、それに対して、ようやく自分なりに納得しうる答えが見つかったからなのだった。要するに、太陽の存在がいかに貴重であるかは周辺の星々の営みによって証明される、ということであろう。過去の作中人物たちが、どれほど夜の太陽=善波の登場を待ち続けたか、また若い世代たちにとって、善波=夜の太陽がどれほど重要であるのか、が、こうした描かれ方のうちには表されているのである。さらに、もうひとつ、べつの角度からの見方をあててみることもできる。たとえば、一個の物語のなかに複数のカリスマが存在する場合、ワキの作中人物ばかりか、作外の読み手もまた、はたしてどちらが上なのか、正しいのか、えらいのか、と、そのような部分に関心を向けがちになるけれども、大鳥のエピソードを通じ、輪蛇(LINDA)と虎武羅(COBRA)の対照を際立たせ、最後に伊武の背中を見せることで、種類は異なっても本物が並び立ってある、そういう極論では裁けない世界が実現されている。結局のところ、それぞれが自分で自分の信じられるものに誇りを持てるのであればそうすればよい、のである。初代輪蛇の赤蛇に認められず、〈まるっきりのニセ物だな〉と言い捨てられた木原は、〈リーダーが笑えば・・・・仲間は明日を・・・・ / 叫べば憎しみのコブシを・・・・・・自分の時間を仲間にくれてやる・・・・仲間の為に怒りも悲しみも凍らせる・・・・・・それがリーダーか!? オレは・・・・“独り”だってイキがってたけど・・・赤蛇の方が何倍もつらくて淋しいじゃねえか!!〉と理解することによって、二代目の輪蛇になる資格を得る。しかし彼は、自身が夜を照らす器量ではないのを知っているから、〈出て来い! 夜の太陽・・・・ずっと路地裏を照らし続けろ!!〉と待ち続けるしかないのだが、やがて夜の太陽となる三代目輪蛇の善波七五十にとっては、まさに木原こそがカリスマであったことを、これまで『荒くれKNIGHT』を、そして『荒くれKNIGHT 高校爆走編』を追いかけ続けてきた人びとは知っている。

 最終回について→こちら
 
 10巻について→こちら
 9巻について→こちら
 8巻について→こちら

・その他吉田聡に関する文章
 『ジナス』1巻について→こちら
 『湘南グラフィティ』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(06年)
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