ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年12月26日
 Yesterday、Yes a day

 『スケルトン イン ザ クローゼット』が佳作であった岩本ナオの、二冊目の単行本となる『Yesterday, Yes a day』は、『スケルトン イン ザ クローゼット』の表題作がそうであったように、身近な他人を扱ったホーム・ドラマの良作である。小学生の頃、東京へ引っ越していった多喜二は、しかし、あちらで進学校に通う生活に馴染めず、高校一年の夏休みにひとりで、祖母の暮らす小さな村へと帰ってくる。その彼とは同い年の幼馴染みで遠縁にあたる小麦は、三年前に母親が病気で入院して以来、家族の雰囲気が変わってしまったことに敏感となり、兄のスバルからは苦手だと思われ、友人たちともどこか素直に付き合えない、そうした寂しさを紛らわすかのように、無口でおっとりとした多喜二の面倒を熱心に見るのだけど、〈誰かに側にいてほしいなんて言っちゃいけないことみたいな気がして…〉という思いなしが、消えてなくなることはないのだった。おそらく小麦が抱える空漠の多くは、幼年期と現在との対照からやってきている。彼女が、多喜二やスバルに求めているものを、簡単にいうと、子どもの頃と同じままであるような環境だろう。父や母という絶対的な庇護者があって、そのもとで安寧に過ごせた時代への思慕ともいえる。だが季節が自然と巡り巡るように、人と人とのあいだの横たわる時間も、止まることなく、流れ、間柄も変わりゆく。覚えていれば戻せることもあるが、忘れられてしまうことも少なくはない。そうした渦中にある動揺と不安に、小麦の心情は一致している。多喜二は、たしょう大げさにいえば、自己実現のために出て行った人間ではなくて、そういったことの煩わしさや寂しさから帰ってきた人間であり、あるいはそのことが、彼の臆病であるけれども、やさしい性格を形作っている。こうしたふたりが、お互いを必要とするでもなく必要とする関わり合いは、物語のなかで、直截的な相思相愛の関係に至ることはないが、それがかえって、定型に凝り固まってはいない、無形の、やわらかな感動を、読み手にもたらす。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(06年)
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