ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年12月20日
 ヒステリック・サバイバー

 この、深町秋生という作家の小説を読むのは、なにせはじめてのことなので、最初は『ヒステリック・サバイバー』という題名や、その装丁、帯における過剰にチープな煽り具合から、ショッキングな筋立てに頼った(だけの)ものか、そうでなければ、サブ・カルチャー的な意匠を凝らした(だけの)ものを予想しつつ、ページをめくり出した次第なのだけれども、いやいや、それはあらぬ誤解でしかなく、こちらの不明を恥じなければなるまい、なんともこれは、エモーショナルな物語のうちにアクチュアルな問題意識を持ち込もうと腐心したことのうかがえる、ひじょうに誠実な態度の作品である。〈九ヶ月前の悲劇が彼の人生を一変させた〉。米アイダホ州の公立中学に通う三橋和樹は、そこで、何げない日常とともに、若さゆえの自信に満ちた、賑々しい青春を謳歌していたはずだったが、しかし突然、同校の生徒による多数の死傷者を出すほどの銃撃事件に遭遇し、親しい友人を失い、自らの身も心も、ひどく傷つけられ、日本へ帰国することとなる。かつての快活さは損なわれ、ある種の有名人であるせいで好奇な目を向けられることもあったけれど、半藤という新しい友人も出来、ようやくここでの生活に馴染みはじめたころ、いや、馴染みはじめたために、校内における理不尽なヒエラルキーから逃れられず、関わりを持つこととなるのであった。基本的には三人称で進むつくりでありながら、プロローグとエピローグに置かれた〈ぼく〉という主語や、主人公である和樹の内面に寄り添った記述が、あくまでも彼の再生劇として読ませると同時に、雑多な登場人物たちの置かれている環境に、地方都市が抱える憂鬱な閉塞感を、思わせられる。作中で、町全体が囚われている、忌まわしき過去の亡霊として、モトヤマという、猟奇的な殺人者の名が幾度か言及されるが、それは、あきらかに89年に逮捕された宮崎勤のイメージを掴まえたものであり、75年生まれの作者が、当時の、多感な時期に受けた何かしらかの印象を反映したものであろう。そこにある実感は、おそらく、他人に特殊なレッテルを貼る行為をもって、自分たちだけは安全圏に立とうとする心性が、この国のあらゆる場所に遍在している、そのことを指摘するほうへ向けられ、そうして、少年や少女の世界を扱ってはいるが、子どもたちの共同体を無批判に美化することもなく、悪いのはぜんぶ大人だろ的な思考停止にも陥っていない、じゅうぶん信頼の置ける内容を支えている。

 ところで巻末には、参考文献として『コロンバイン・ハイスクール・ダイアリー』(ブルックス・ブラウン / ロブ・メリット)が挙げられているが、ここで思い出されるのは、たしかそれに付せられた解説で、大澤真幸が、コロンバイン高校銃撃事件の、ある被害者になった少女とその両親の言動から「寛容」というタームを導いていたことで、また、その解説に先立つ文章「寛容と不寛容」(『帝国的ナショナリズム』所収)のなかで大澤は、そうしたアメリカ社会の〈犯罪者への基底的な肯定性〉は、キリスト教の伝統に基づいているとし、〈それに対して、日本社会の態度を基底している伝統は何か? 日本社会が示した底無しの否定は、結局、否定された者の排除に繋がる。こうしたやり方を支えているのは、村の論理である。いわゆる自然村は、少なくとも社会構造のレベルでは、あらかた破壊されつくされたと言ってよいだろう。だが、心性のレベルでは、自然村を支えていた原理に代替しうるものが、未だに現れていない。底無しの排除とは、要するに、あの「村八分」のことである。過激な事件、過激な逸脱を前にしたとき、日本社会が巨大な村となって、犯罪者に村八分を仕掛けているのだ〉と書いている。むろん大澤は、無条件で、日本社会との対照に提示された「寛容」を支持せよ、といっているのではない。それは、ときに極端な「不寛容」へと裏返りうるからだ。赦されるものと赦されざるものは、宗教的な相違によって、明確に差別されてしまう。では、排除を斥けるにあたり「寛容」と「不寛容」のあいだに、何か、置かれなければならないものがあるとして、いったい何を設ければよいのか。そのことに、この『ヒステリック・サバイバー』という小説は、ひとつ、答えているかのように思われる。それを僕なりに解釈し、一言でいえば「葛藤」になるのではないだろうか。とある危機的な状況下で、和樹のとった行動は、いかに「寛容」と「不寛容」のあいだにある「葛藤」に耐え、そこに留まり続けるべきかを示している、といったふうに受け取れる。言うまでもなく「葛藤」は、判断の停止を回避する。たとえば、どうして虐めはなくらないのか、といった問いは、どうして戦争はなくならないのか、という問いがそうであるように、虚しく、儚い。が、しかし誰かが死に、誰かが不幸になったところで、けっして変わることのない、その暗い現実に希望を灯すためにこそ、人は悩み、生き延びなければならないのである。
posted by もりた | Comment(3) | TrackBack(0) | 読書(06年)
この記事へのコメント
森田さん、どうも。この記事、読後素直に、誰かのために僕も生き延びよう!、と思うようになりました(そんなに力むことなく)。大澤さんは「不可能性の時代」とあえて位置づけた上で、それを突破する想像力を僕らに換気するよう論文を書かれているのではないか、というのが最近の僕の意見です。「葛藤」は、まさに留まることはできない、後には引けない、突破しなければ先に進めない、しかしそこには判断力が必要だ、という意味合いがあるように思います。僕を含めた団塊ジュニアはよく「印象が薄い」と位置づけられていますが、まさに葛藤しており、その沈黙ゆえ、印象が薄いのだと思います。少なくとも団塊ジュニアは判断力はあると思っています。その点で僕は(無邪気な)希望を持っています。
Posted by 戸田修司 at 2006年12月21日 08:53
追記

アメリカの「寛容」については、司法制度にも反映されています。死刑囚が「翻身」「回心」してそれをコミッティー(裁判所、陪審員、刑務官、地域住民など)が容認すれば、死刑を免除されて刑務所を出て普通に生活できるそうです。「責任主体」が一貫性を持たない、ということがアメリカの司法制度にもあるそうです。日本は、、、まだ王権制の異人説、「まれびと」にとどまっているのでしょうか。
Posted by 戸田 at 2006年12月21日 08:59
どもども、コメントありがとございます。
ここでは「葛藤」と意見をいいましたが、想像力で暴力を事前に抑止するというのは、一種、冷戦時代的な考えかもしれないなあ、と自分でも思いました。その先にあるのが、まあ現在なのかもしれませんね。
Posted by もりた at 2006年12月22日 16:02
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