ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年12月17日
 ぶっせん 下

 もとのヴァージョンも持っているのだが、書き下ろしで番外編が加えられているというから、今回の、上・中・下の三冊に新装された版も手に入れた三宅乱丈の『ぶっせん』なわけだけれども、あらためて読み直してみても、その馬鹿馬鹿しいシチュエーションのなかを、悩ましくも楽しげに生きる登場人物たちの、ひじょうに頭の悪いあたりが、おかしい。ところで上巻は夏目房之助の、中巻は三浦しをんの、そして下巻には長塚圭史の解説が付せられていて、これが驚くべきことに、リアルタイムで読んでいないことを(いや、長塚ははっきりそういっているわけではないが、文章から判断するに)明言している人たちばかりで、資料としてどれだけの価値があるのかは、とても訝しい。誤解なきよういえば、当然のように、リアルタイムで読んでいた人がえらい、ということではない。じっさい、夏目の、この作品に対する読解は、これまでにもすでに『BSマンガ夜話』などで提示されていたことからもわかるとおり、相応に首肯させられるものである。しかし、それらの解説は、たとえば今回の下巻「あとがき」マンガにおける、作者の、当時の担当M村氏に対する感謝が、どこからやって来ているのかは、すくい取れていない、と思う。それは、何も作外の諸事情を考慮せよ、という意味ではない。だいたい、三者が解説を書いた時点で、たぶん、その「あとがき」マンガは読めていないのだろうし、だからそうではなくて、たとえば『モーニング』掲載時、毎回毎回の柱にあった煽りや次回予告もまた、マンガの内容にあわせたかのような滅茶苦茶なものだったのであり、この『ぶっせん』という作品を愉しませるための、ひとつの要素として機能していたのであった。もちろん、それは担当氏の仕事であろう。そういう、恵まれたといってもいい環境下で発表されたがゆえに、最初から最後まで特殊なエンターテイメントをまっとうしていたことを、ここでの「あとがき」マンガは、ふと思い出させるのだ。せめてそれを誰かひとりぐらいはいってもよい。話は変わるが、同様のことは、今ぱっと思いつくかぎり、ここ最近のものでは『週間少年チャンピオン』に連載されている『椿ナイトクラブ』にもいえる。あれも雑誌掲載時のあらすじや次回予告が、本編それ自体を上回る度の越えようなのだが、単行本では、当然のごとく、オミットされている。もちろん、そうしたケースであっても、なかには雑誌掲載時の状況をできるだけ保持したまま単行本化される作品などもあるので、そうではないものに関しては忘却されてしかるべき程度の些事なのかもしれないし、まあどんなマンガであれ、資料的な情報や、それこそ作品に対する愛着でさえ、今やネット上にあるファン・サイトやどっかの掲示板の過去ログのほうが濃いのだから、といってしまえば、それでお終いな話だけれど、著名人をパブリシストとして召還することのみを解説の役割に限定してしまうのは、もしもマンガという表現の周辺を文化と呼ぶのであれば、いささかお粗末ではないかしら、結局のところマス相手の産業だって割り切っているならいいけどね、と常日頃から考えているので、以上のようなことを述べた次第である。

 ※とはいえ、この項、作品の内容からは逸れているため、のちほど書き改めるか、削除するかもしれません。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(06年)
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