ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年12月12日
 『群像』1月号掲載。津村記久子に関しては、これまで長篇をひとつ、短篇をひとつ読んだのみの立場だが、そこからいわせてもらえば、もうすこし評判になってもよい作家に思われる。つまり、そういう期待値の高さを目安に、この『十二月の窓辺』を読みはじめ、読み進めたわけだけれど、読後に、その印象はより強まった感がある。物語の中心は、大学の新卒で印刷会社に入ったツガワという女性であり、彼女の〈当初こそ、ひなびた田園風景の中にたたずむ本社ではなく、交通の便がよく、いかにも洗練されたオフィス街の真ん中にある支社に通えることを喜んでいたが、郊外の地元採用の高卒の女の子たちが大部分を占め、職場の先輩のほとんどが三つ四つ年下であることがわかり、数ヶ月も経って自分が彼女たちに徹底的に馴染めていないことが身に染みてくると、どうしてこんな閉鎖的なところに配属されたのか、本社で営業をするほうがよかった、と人事を恨むようになった〉と感じる、そのような半径の狭い世界における、卑近であるがゆえに強力な抑圧が、いかに生きることをしんどくさせるか、を、簡単にいうと扱っており、またそこに、ツガワの勤め先付近で、この夏から冬場にかけ通り魔事件が発生している(らしい)ことと、その勤め先の窓からは、彼女が最終面接で落とされた雇用環境促進公団という団体の入ったトガノタワーが見えることの、おおきく二つの事項が絡んでくる。図式的に捉まえれば、両者は登場人物の心境を象徴しているといえるし、じっさい、そういうふうに解釈してもらおうかというように、読み手は誘導される。休憩所の窓から覗けるトガノタワー内の〈雇用環境促進公団の印刷室での不穏な出来事は、部長が通り魔に襲われてから間もなくして起こった〉、こうした出来事をきっかけにして、狂言自殺を考えるほど追い込まれながらも、それまでなかなか決心のつかなかった〈今の会社を辞める〉ことが、具体的な行動になるのである。しかし、これを話の筋とともに飲み込むのには、やや難儀させられる。執拗なまでに暗く描かれている業務の生々しさに比べ、いかにもターニング・ポイントめかすべく起こされた事件といった印象が強く、どこか白々しいからだ。が、まあ、そのへんは、技巧的にうまくいっていない、の一言で片付けることも可能だけれど、ページを閉じて、ふと思い返したさいに、これがどうも気にかかる。おそらく、種々の物事が密接にリンクするのは、べつの会社の人間だが、たまに昼食をいっしょにとることがあるナガトに誘われ、飲みに行った場面に書かれている、次の箇所だろう。〈ツガワは膝の上で頬杖をついて、ゆっくりとまばたきし、やがて目を閉じた。瞼の裏に、ナガトのことを自慢していたZ課長の顔が浮かび、通り魔から免れたとはしゃいでいた自分の職場の部長の様子が浮かび、V係長の鋭い肩口のシルエットが浮かび、また吐き気をもよおし、最後に、窓の向こうでゆっくりとかがんでいった雇用環境促進公団の印刷室の彼女のことが浮かんだ〉。この記述は、いうまでもなくツガワの連想を示しており、要するに彼女の内面とイコールになっている。そう考えたとき、通り魔にまつわるエピソードだけが、ツガワにとっては、伝聞的もしくは間接的に認知されているものに他ならない。じじつそのとおりであるかのごとく、やがて〈雇用環境促進公団の印刷室での不穏な出来事〉は、ツガワのエゴイズムに回収されるが、通り魔の一件は、宙に浮いたような状態で、彼女の前を通り過ぎるのみである。だが、その、エゴイズムに回収されえないことは、ことによると他者の存在を指し示しているのではないか。あるいは、退社の日に、通り魔の現れる路地を抜ける間際、それに気づかされたからこそ、〈ツガワはいつの間にか息を切らしながら全力で駆け出していた。そんなことでのしかかる後悔が振り払えるとは思わなかったが、次は自分以外の誰かのこともわかることができるようにとツガワは強く願〉わずにいられないのではなかったか。何はともあれ、こういう社会に出て働く若い女性の苦悩を主題にした小説は、近年、けっして少なくはなく、いや、むしろ有り触れているなかでもとくに、いわく言い難い孤独の影を写しとった作品になっている。

 『花婿のハムラビ法典』について→こちら
 『君は永遠にそいつらより若い』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(06年)
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