ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年12月07日
 愛と癒しと殺人に欠けた小説集

 伊井直行の『愛と癒しと殺人に欠けた小説集』に収められている、六つの短篇のうち、「ヌード・マン」(元の題名は「ヌード・マン・ウォーキング」)と「掌」、「ローマの犬」の三篇、つまり半分は、初出時の段階で読んでいるのだが、「初出誌に関する記述を含む前置き」によると、それぞれ、程度の差はあれ、手が入れられているらしい、とはいえ、正確に比べたわけではないので、あくまでも記憶に頼っていうのだけれど、読後の印象をおおきく違える、そういうことはなかったように思われる。どの篇も、とぼけてはいるのだが、ふざけているのではない、独特な真剣さを持った作品になっていて、そのことが、とても好ましい。と、なかでもひとつ、お気に入りを挙げろということになれば、僕の場合は「掌」が、それにあたる。高校生の〈僕〉が、自分の身辺を語っているうちに、今は亡き父親が経営していたのと同じ名前の、べつの病院を、とくにどうといった具体的な動機があるわけでもなく、尋ねる。筋のみを述べれば、たったそれだけの話である。とくにどうといった具体的な動機があるわけではない、と今いったけれども、しかし、なぜかしらそうしなければならない必要性が彼にはある、たしかにそう感じられるところに、作品の魅力が備わっている。ここに入っている他の小説もそうなのだが、登場人物たちがとある出来事の前を通り過ぎる、あるいは、いくつかの出来事が登場人物たちの前を通り過ぎていったさい、以前と以後では、あきらかな変化があるにもかかわらず、それは作中の彼や彼女らに強く意識されるのではなく、まるで無意識への働きかけであったかのように、その行動や記憶の一片に付与される。たとえば「掌」には、こうある。〈僕の手には、小山先生の掌の感触が残っていた。肉厚で皮膚がしっかりと固い。父が元気なときに、握手をしたことはなかった。入院してから、祖母に促されて手を握ったのが唯一の機会だ。父の手に脂気がなく、しわくちゃの紙のようにカサカサしていたことにショックを受けた。そのときの父親の皮膚の感触をずっと忘れないでいた。だが小山先生と握手した後には、二つの手の感触がごちゃまぜに思い出される。父の手の感触だけを思い出すことができなかった〉。このように書かれていることには、平常と地続きであるがゆえの、なにか、はっとさせられる生々しさが、そしてその生々しさが、僕という読み手の心を動かす。

 「ヒーローの死」について→こちら
 『青猫家族輾転録』について→こちら 
 「ヌード・マン・ウォーキング」について→こちら


posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(06年)
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