ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年12月03日
 表象の奈落―フィクションと思考の動体視力

 四半世紀に渡り書き連ねられてきた文章の収まった『表象の奈落―フィクションと思考の動体視力』のうち、おそらくもっとも長いものである「『ブヴァールとペキッシェ』論 固有名詞と人称について」は、題にあるとおり、フローベールの小説『ブヴァールとペキッシェ』を論じた内容で、初出が84年だというのもあるのかもしれないけれど、そのじつに蓮實重彦している筆致に、おお、自分は今まちがいなく蓮實重彦を読んでいるぞ、という気分にさせられるわけだ、が、そこで蓮實が行っているのは、批評の対象、この場合は作品内の記述を、物語を納得させるための効果として捉まえるのではなくて、あくまでもテクスト上で機能する説話論的な役割として解析することにほかならない。つまりは〈テクストの提起する形式的な問題に共鳴し、そこに饗応すべき問題体系を増幅させることがこの文章の目的である〉がゆえに、〈この作品(引用者注:『ブヴァールとペキッシェ』)の理解を深めようとする意志などまるで持ってはいない。テクストは理解の対象ではないからである。そこに提起される形式的な問題に反応することだけをテクストは持っている〉といった指向性が、全開されているのである。たとえば蓮實は、『ブヴァールとペキッシェ』の冒頭で、偶然に出会った多くの共通点を持つ二人の作中人物、まあそれこそがブヴァールとペキッシェなのだけれども、その彼らが、たまたまそれぞれの帽子の裏に書いてあった名前を黙読し、そこではじめて二人の名前が明かされるくだりを指し、〈『ブヴァールとペキッシェ』を読み始めるものは、すぐさま、ブヴァールとペキッシェという名前を読んでいる二人の作中人物の描写を読むことになる〉と、要するに、作中人物たちがべつの作中人物の名前を読み、知ることが同時に、作外にいるこちら読み手が彼ら作中人物たちの名前を読み、知る行為を象徴しているのであり、それはつまり、作中の二人がそこでお互いの振る舞いを反復しているのと同じように、読み手たちもまた彼らの振る舞いを見事なまでに反復していることをも含んでいるのだ、という。しかしながら、読み手は、じっさいに作中人物たちの帽子の裏に肉筆で書かれた名前を読んでいるわけではない、いや絶対に読むことはできないし、さらに〈作者フローベールの肉筆原稿にあってさえ、それと遭遇することは不可能〉であるにもかかわらず、綴りの同一性があるかぎり、〈二人が相手の裏に読みとった筆記体の書名と、作者の肉筆原稿のその部分と、われわれが読むテクストの同じ箇所との間には、一貫した類似が否定しがたく維持されている〉のである。そう考えていったさい、着目すべきは、物語的な情報の数々ではなく、そこに記述されている反復性が何を意味するか、になるであろう。と、いや、あまりうまく捉まえられていないかもしれないが、それでもまあ、込み入っているといえば、じつに込み入っているし、当たり前のことだといえば、ごく当たり前のことのふうにも思える、そのようなロジックにおいて、〈読者がある恋愛を物語として納得するのは、その成立事情を完全に了解したからではなく、いかにもそれらしい細部に触れたり、効果的な技法に促されて、その虚構をとりあえずうけいれるからにすぎない(略)それが遊戯として進展するか否かは、話者が題材をどれほどうまく語るかにかかっているが、その場合のうまさとは、理由の説明に関わるものではなく、理由を問わんとする意識をほどよく眠らせるための技術にほかならない。本当らしさとは、決して真実そのものなのではない〉といった具合に、物語とは異なるもののほうへ、堂々と、そうして説得力を加えていく過程を読むのは、ごく単純に、愉しい。それこそが、あるいは「あとがき」の言葉にしたがえば、〈「批評」は、本質的に言い換えの作業にほかならない。翻訳とも呼べるその作業は、言い換えるべき対象としての他者の言説の中でまどろんでいるしかるべき記号に触れ、それを目覚めさせることから始まる (略)その覚醒によって、他者の言説は、誰のものでもない言説へと変容する〉ことの成果だといえる。

・関連
 阿部和重『阿部和重対談集』についての文章→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(06年)
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