ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2012年08月16日
  満天の星と青い空

 もちろん西森博之は(比類なきといってもいいぐらい)すぐれたマンガ家だが、しかし小説家としてはどうか。作者にとっては初の小説となるこの『満天の星と青い空』を、作家論的に考えるのではなく、あくまでも作品論的に読むのであれば、いくらか残念な気持ちにならざるをえない、というのが正直な感想だろう。理由は非常に単純で、「描写」が「説明」にしかなっていない、または「説明」が「描写」にはなっていないからであって、後に図像を加えられ、マンガ化されるため、用意された原作ならこれで充分なのかもしれないけれど、そうではなく、書かれたものが素のままで百であると手渡されたとき、やはりどうも物足りなさを覚えるのだった。

 文明の崩壊しかけた世界で、高校生の一群と、彼らを付け狙う若者たちが、殺し合いと違わぬ状況へと追い込まれていく、という内容は、一部のライトノベルに近いところがあるし、現代的なジュヴナイルと評するのに相応しいものだと思う。そこでは、サヴァイヴァルの死線を比喩とし、ティーンエイジャーの葛藤にリアリティが担保され、残酷な問題提起とそれを越えようとする理想像とが熾烈に入れ替わりながら、安易なハッピー・エンドに回収しきれない帰結を導いているのだが、作中人物たちの言動が「説明」の具体性によって拘束されている=こいつはこういう人間だからこの場面ではこういう風に決断するとあらかた「説明」してしまうので、ショッキングな展開にも戸惑いは少ない。筋書きには魅力があるのに下手な役者ばかりが揃った舞台劇のような印象を残すのである。

 弱者と強者はどこで分け隔てられるのか。SF的な事件を経、設定された受難を通じ、繰り広げられる『満天の星と青い空』の物語において、テーマを一つに絞るのであれば、おそらく、それになる。弱者と弱者の比較が強者を作り出す(弱い者がさらに弱い者を殴る)。こうしたシステムの閉塞を、終末の風景に放り込まれた高校生たちは、否応なく体験していく。そのことが、殺伐としたイメージを全編に付与させているのだが、他方で彼らを励まし続ける二つの存在に着目したい。主人公格の中澤真吾とヒロインにあたる水上鈴音である。タイプのまったく異なった両者が他の作中人物たちよりも特別目立っているのは、弱者と弱者の比較が強者を作り出す、というロジックを同じく逸脱しているからにほかならない。そうしたルールやゲームをはっきり無効としてしまう真吾と鈴音こそが、文明の崩壊しかけた世界で秩序を再チューニングしうる。前述したシステムの上位に存在する、という意味で強者の役割を果たしているのだ。

 ただし、真吾も鈴音もある種の超人であって、およそ凡人には及びもつかない領域に達していることが「説明」されている。確かに『満天の星と青い空』は、アパシーを生きる真吾が、対極である鈴音との出会い(ボーイ・ミーツ・ガール)を介して、感情を回復しつつ、超人を降りていく過程でもあるだろう。だが、それを中心の点とするには、あまりにも場面の転換が激しすぎる。「描写」というより「説明」をベースとしているがゆえに可能な(速やかな)視線のスイッチが、真吾の活躍を正しくコミック的な超人のそれに止めているのである。真吾や鈴音とチームを組むことになる横川晃一は『ドンキホーテ』におけるサンチョ・パンサのような奴で、いっそのこと、こいつに語り手を任せてしまうという方法もあったのではないかと思う。

 ヤンキー・マンガ出身の小説家としては、木内一裕(きうちかずひろ)が徐々に成功を収めつつあるが、木内がハードボイルドを参考にし、文体を固めたのとは違い、西森の『満天の星と青い空』には何を手本としているのか判然としないところがある。無論、そこに独自性を見出すことはできなくないものの、ねえ、やっぱりこれはマンガで読みたいよ、という願望の方が大きく出る。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(2012)
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