ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年11月28日
 ピカルディの薔薇

 津原泰水に関しては、それほど熱心にフォローしているつもりはなかったのだが、この『ピカルディの薔薇』に収められている七篇のうち、「甘い風」と「新京異聞」以外のものは、初出の段階で目を通していたことに、自分で自分が驚かされた。「新京異聞」にしたって、掲載誌は持っているはずなので、たんに見過ごしてしまっただけであろう、といえば、つまりは偶然でしかないわけだけれど、なぜそのように書きはじめたかというと、「甘い風」のなかにある次のようなやりとり、「貧乏暇なしが昔話じゃないんだよ、こっちの世界は。本読みのあいだで評判がいいからといって普通より売れるわけじゃなし、増した仕事は貧乏性だから断れないだろう、するとあちこちに書き散らすから、一社ごと本にまとまるのは先延ばしになる。扶養家族はいるし、学生の頃のほうがよほど豊かですよ」「すると原稿がたまりきりゃ、どっと金が入るってことだ」「それまで評判が続いていればね」、この箇所がひどく印象に残ったからである。もちろん、ここに紡がれている物語群は、あくまでも猿渡という、以前の短篇集『蘆屋家の崩壊』と重複する架空の人物を、語り手(書き手)に置いたフィクションである、しかしながらその一方で、作者側の実感が、先のような書き方で表れている可能性も否定できない。いや何もそれは、作品の、内部と外部とのレベルを同一視すべきだということではない、そうではなくて、作中の人びとに流れる血やエモーションが、いったいどこから注ぎ込まれているのか、ふと気にかかったりもする、活字のなかから彼らの表情が生々しく浮かび上がってきたりしたときなどはとくに、だから、だ。じっさい『ピカルディの薔薇』で読むことのできる七篇はすべて、いわゆる怪奇小説ふう、さもなければ幻想的、ゴシックとはいかないが、観念にからんだ作風で、現実を現実的に描写することに、立脚していない。にもかかわらず、そこかしこにリアリティのある重みを感じさせる。たしか、津原の筆致を、舞台劇の屋台崩しに喩えて評したのは東雅夫であったと思うが、それまでに積み上げられたものが、わずかな数センテンスのカタストロフをもって、ごそっと消失するさい、読み手の意識が否応なく動かされるのは、当然ディテールの巧みさもあるけれど、そのことを含め、実存ないしリアリズムとの接点上で引き起こされるからに他ならない。ともあれ、語り口は、シリアスに傾き過ぎず、ふんだんにユーモラスで、そのおかしみのあることが、もう片方、作品のリーダブルな面を支えている。

 『ブラバン』について→こちら
 『アクアポリスQ』について→こちら


posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(06年)
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