ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2005年04月05日
 半島を出よ (上)  半島を出よ (下)

 2011年、日本は経済状況の悪化により、アメリカを含む世界各国から無視される立場にあった。国民はヒステリックになり、やがて無気力に囚われた。ホームレスと暴力の増加が国中至るところで認められ、無能な政府を誰もが信用していない。4月のある日、海の向こう、北朝鮮からやってきた9人の反乱兵が、福岡ドームを占拠する。放たれるロケット弾。対策の遅延によって、大規模な北朝鮮軍の上陸が許されてしまう。福岡郊外、その光景をテレビで見る少年たちがいた。カリスマ的な詩人イシハラのもとで共同生活を営む彼らはみな、ディスコミュニケーションが原因で、社会からドロップ・アウトしていた。事実上、占領下に置かれた福岡は、国から見捨てられる。そのことが結果として、少年たちのマジョリティに対する憎しみを加速させる、マイノリティを排除しようとする兵士たちを明確な敵として認識するのだった。

 以上が、大まかなプロットである。なので、当然のように、ポリティカルな問題や経済的な知識がふんだんに盛り込まれているのだが、そういったことはどうでもよろしい。社会的なアクチュアルさがあるかどうか、といった点において、今後、批判的な書評が出回るとも思うが、まあ、それもそれでどうでもいい。また、荒唐無稽な物語が兼ね揃えているエンターテイメント性が、一線級のものだとしても、これより面白い小説は他にきっと見つけられるだろう。だから何? 基本的には、先駆だとか適者生存だとか、つまり、弱者は死ね、っていういつもの村上作品であり、いやいや、だとしたら、どっからどう読んでも、これ、いいじゃないですか。以下、その理由を(できれば)簡潔に述べたい。

 あまり論じられることはないが、村上龍のバイオグラフィにおいて『音楽の海岸』こそが、もっとも重要な作品であると、僕は思っている。そこで行われていることは、『コインロッカー・ベイビーズ』の登場人物でいえば、キクとハシそしてアネモネ、彼らが為しえていたパワー・バランスの決壊である。もちろん、キクとハシとアネモネは、『愛と幻想のファシズム』でのトウジとゼロ、フルーツに置き換えてもいい。要するに、自己の妄想と他者の他者性、それらの不均衡を表していたのが『音楽の海岸』なのである。おそらくはハシ(ゼロ)とアネモネ(フルーツ)の役割を代替するはずだった石岡とソフィという登場人物が、驚くほどあっけなく物語から退場する、そのとき、キク(トウジ)的な主人公であるケンジが見つけたのは、本当の自分などどこにもいない、と、そういう事実であったわけだが、それはちょうど『コインロッカー・ベイビーズ』のラストで、心臓の音イコール本当の自分を発見するのと、正反対の意味合いを持っている。なんと残念ながら、人には生きる意味がなかったのだ。そして、それは90年代以降、延々と自分探しを続ける、この国の人々の自意識を見事に反映したものであった。

 事実、それ以降の村上作品は、自己の妄想と他者の他者性の狂ったバランスによって、良くも悪くも、その中核が担われていたように思う。だが、しかし、この小説でそれは、うつくしいエピローグに結ばれるまでの過程へと昇華されている。つまり再編成され、物語化されたのである。『音楽の海岸』よりあとの作品はどれも、大きな枠組の一部分を切り出したような作りであり、ある意味では着地点がなかったといえたけれども、ここにはちゃんと着地点が用意されていることからも、そのことはわかる。

 北朝鮮軍に反旗を翻す少年たちは、登場の時点からして、アウトサイドに立っている。彼らのほとんどは幼少の頃に、猟奇的な行動に駆り立てられている。もしも彼らの脳髄を覗き、そこを満たす要素を解明することができたとしたら、暴走する自己の妄想と他者の他者性が無いこと、そうしたふたつの事実を突き止められるだろう。彼らは、死線のなかで、自意識をチューニングするための術を身につけてゆく。それは、誰かに伝授されたり、自分の意思だけで、習得できるものではなかった。妄想を妄想として認め、他者を他者として認める、そのときにはじめて、妄想と他者との境界線上に位置している何か、けっして妄想そのものではない、けっして他者には成りえない、そういった存在に気づく、それこそが自己なのである。少年たちはただ、そのことをありのままに受け入れる、そして、ある者は死に、ある者は生きる。生と死に善も悪もない。それはつまり、生きることにも死ぬことにも意味がない、ということでもある。それでも、生きたいならば息を吸えばいい、死にたいならば息を止めればいい。しかし、それではあまりにも寂しすぎるではないか。だからこそ、妄想があり、他者がいる。自分の生に意味をもたらすのが妄想なのであり、他者だけが死後の自分に意味を与えることができるのである。もうちょい言えば、だから自意識はつねに、両の存在に、ちょうどサンドイッチのような形で挟み込まれている格好になるのだ。

 ごめん。変な方向に話しがいった。ぜんぜんまとまってないが、長くなったので、ここらへんで切り上げるけれども、最後に一点指摘しておくと、少年たちから一目置かれているノブエとイシハラ、ふたりの大人たちをそれぞれ、キク(トウジ)とハシ(ゼロ)に見立てることも可能だ。『コインロッカー・ベイビーズ』が出版されてから25年、長い年月のなかでサブ・カルチャー的な自意識が陥った混乱を、いま我々はどのようにしてブレイク・スルーしなければならないのか、この小説がシミュレートしているのは、たぶん、そういうことである。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(1) | 読書。
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半島を出よ (上)
Excerpt: 北朝鮮のコマンド9人が開幕戦の福岡ドームを武力占拠し、2時間後、複葉輸送機で484人の特殊部隊が来襲、市中心部を制圧した。
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Tracked: 2005-04-26 14:10