ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年11月20日
 新編 軟弱者の言い分

 『新編 軟弱者の言い分』は、2001年に出た小谷野敦初のエッセイ集『軟弱者の言い分』を加筆訂正のうえで文庫化したものであり、僕はこれを元の版で何度も読んでいるので、ここでは、このたび「軟弱者2006」として追加された文章のうち、「片思いと一神教」についてのみ、すこし、メモ程度に触れておきたい。片想いと一神教は似ている、というのは、小谷野が折に触れ(というほど頻繁ではないかもしれないが)言及している、ひとつのテーマのようなもので、たとえば彼が書いた例の『悲望』なども、そのことの小説化だといえる。『悲望』にあてられた批評(批判)のなかで、とくに多く見かけられたのは、女性の側の心理的な負担が考えられていない、要するに他者の内面が顧みられていない、等々であったように思うけれど、小谷野が小説の上手い下手のレベルを問うのではない、それらの評価に反論しなければならなかったのは、けっして『悲望』の主人公は他者をないがしろにしているのではなくて、そこでは恋愛(片想い)の対象が、あくまでも神を思わせる、絶対的な他者としてのみ、主体の前に現れているのだ、と、しているがためであろう。小谷野は「片思いと一神教」で、〈この先は、私が考えたことである〉と、次のような持論を披露している。〈応えてくれない片思いの相手を選ぶのは、そのひとを唯一神の代わりにしているのではないか。日本で一神教があまり広まらなかったのは、日本人は「世間」のような緩やかな羈範に依拠していたからだと言われる。(略)応えてくれない恋の相手を一人に定めることによって、人間嫌いは一神教徒のように、世界の中心を定めて生きられるのである。(略) ダンテが、一目見ただけのベアトリーチェを生涯永遠の女生と思い続けたのは、南欧中世の聖母マリア信仰を源泉とすると言われているが、多神教国の片恋男にとっては事態は逆で、片恋から唯一神を作り出すのだ〉。ここで押さえておかなければならないのは、たんに片想いの対象を救済と見るのではなく、それが、どのような働きかけにも〈応えてくれない〉ことの苦しみが、主体に「この私」を実感させる、あるいは自己の無意味さと空漠を埋めうる、ということで、おそらくこの考えは、ロラン・バルトの『恋愛のディスクール・断章』をベースに置いたものであり、相思相愛という既成の恋愛形態を、すべての人間がなぞらえなければならないとしたら、それは共同体のイデオロギーに従っているにしか過ぎず、じつはそちらのほうこそが、真実の意味で他者の他者性を排除しているのではないか、と推測することもできるわけだ。

・その他小谷野敦に関する文章
 『悲望』について→こちら
 『谷崎潤一郎伝――堂々たる人生』について→こちら
 『なぜ悪人を殺してはいけないのか―反時代的考察』について→こちら
 『禁煙ファシズムと戦う』について→こちら
 『帰ってきたもてない男――女性嫌悪を超えて』について→こちら
 『恋愛の昭和史』について→こちら
 『俺も女を泣かせてみたい』について→こちら
 『すばらしき愚民社会』について→こちら
 『評論家入門 清貧でもいいから物書きになりたい人』について→こちら
posted by もりた | Comment(2) | TrackBack(0) | 読書(06年)
この記事へのコメント
森田さん、お久しぶりです、戸田です。
小谷野敦は相変わらず哲学とか社会学に嫉妬している、片思いしている人なのだと思っています。日本は中国や挑戦と同じ儒教国なのだと思います。
Posted by 戸田修司 at 2006年11月20日 13:51
戸田さん、どうもお久しぶりです。
儒教ですか。うーん。この国における近代以前の影響力はともかく、結局のところ儒学もまた傍流のひとつなのではないか、と。
Posted by もりた at 2006年11月21日 15:23
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