ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年11月17日
 『文學界』12月号掲載。岩代明子の『トカゲ』は、もともとは『樹林』という同人誌の四九六号にて発表されたものであるが、「二〇〇六年下半期同人雑誌優秀作」に選ばれたことで、このたび『文學界』へと転載された。〈離婚して、母の家に戻ると、同居人が増えていた〉。その同居人というのは、父方の遠縁で、30年近く精神病院に入院していた老人である。この老人は、語り手である〈私〉たちとほとんど口をきかず、〈時々、自分でコーヒーを淹れる以外は、終日和室に引きこもり、縁側に座って、2Bの鉛筆を握り締め、絵を描いている〉のだが、その絵のどれもが小さな庭を描いたもので、内容にほとんど違いは見られない。そしてどの絵にもなぜか必ず、黒々と塗りつぶされたトカゲが描かれてあるのだけれども、〈私〉は庭先に、そのようなトカゲの姿を見かけたことがなかった。と、こういう筋立てであれば、読み手の関心は、たいてい老人とトカゲの関係に向けられるのではないか。だが、文章を追っていくうちに、この小説は、そのことの焦点化を目指していないことに気づく。終わりぎわに〈私〉の、次のような言葉がある。カワタさんというのは〈私〉の恋人の名前である。〈わからないので黙っていると、カワタさんの声が、あなたはそういうのが好きなんでしょうと言った。それで、そうか私はそういうのが好きなのかと思ったけれど、わからない。わからなくて、でも、それでいいように思った。わからないままに、というのがいいような気がした〉。この〈わからないままに、というのがいいような気がした〉という気分こそが、おそらくは作品の重心であるように思う。じじつ、ここでは何もかもが、理由の明言化されないまま、ただゆらりと物語の表面を漂う。たとえばカワタさんに何を考えていたのかを尋ねられ、〈私はわざとわからないように答えた。わざとわからないように答え、けれど、わからないようにしか言えないと思った〉とあるように。あるいは、なぜ母親が老人を引き取ったのか、〈よくわからない、というのがその返事だった〉というように、だ。こうした「わからない」という響きは、しかし「じっさいにわかっていない」というのではなくて、おおかた「なんとなくわかっている」ということの言い換えであり、そういう「なんとなく」が、作中で指向されているのは、〈けれども、いったん言葉にして口に出してしまえば、きっと記憶は無力なものに変わり果ててしまう〉といった意識(無意識)を前提に立てているためであろう。そのことは、老人が何をするにも頻繁に許可を求めるので、あらかじめ家中に許可を書いた指示書が貼り付けられている、そうしたことと暗に結びつけられている。〈私はこっそり家のメモを一枚ずつはがし始めた。一ヶ月もたたないうちに、家中の指示書はゴミ箱に捨てられていった。特に老人に変わった様子はなく、許可を求めることもなかった〉のだが、〈老人を見ていると、目に見えない指示書が家のあちこちにまだ貼りつけられているような気がした〉のを、要するに、反証するものだといえる。そういったことをあわせ、「なんとなく」を「なんとなく」書いたというのではなく、「なんとなく」の曖昧な気分を、できうるかぎり的確に描写しようとしたところで出来上がった、あくまでもその質感に、好感を持った。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(06年)
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