ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2005年04月02日
 恋愛の昭和史

  『文學界』連載時にも、ちらちらと追ってはいたが、こうしてまとめて読むと、けっこうなヴォリュームである。しかも、取り上げている作家あるいは作品が、かつてはメジャーであったけれども、今やマイナーなものばかりなので、正直なところ、読みはじめる前はあまりモチベーションが高まらなかった。いやいや、だが、しかし、第二章での久米正雄の恋に関するエピソードのあまりの悲喜劇ぶりに感情移入し出すと、途端に、これがいつもの小谷野敦と同じく、モテない男はいかにしたら救われるか(救われないか)を取り扱っていることがわかる。

 ひとつおさらいをしておく。と、小谷野が一貫していっているのは、僕には、次のようなことに思える。世間一般にごく当たり前のように流布されている、人はなぜ恋愛をしなければならないのか、という問いの前提に立つ、「恋愛」というタームに虚偽があるのだとすれば、「しなければならないのか」という疑問は当然のように成り立たない、それ以前に人は「しなければならない」というバイアスに苦しめられることはないのではないか、ということである。

 誤解がないようにいえば、それは、恋や愛などと無縁でも生きていける、という言い切りとはちょっと違っている。いま現在、我々が「恋」や「愛」そして「恋愛」と呼ぶものに、はたして規則として機能しうるだけの内実が備わっているのかどうかの真相を、小谷野は解明しようとしているのだ。つまりモテない云々は二次的な要素であり、それよりも理不尽(不自然)な状況を甘んじて受け入れる、そういう愚鈍さへの批判のほうが強い。

 この本は基本的に、明治中期以降から平成初期までの小説家(文学作品)と風俗(大衆文化)の変遷を追いながら、恋愛が西洋から輸入されたものであるという説に意義を唱える、そういう流れになっている。もちろん、恋愛という事象と深く結びつきのある、結婚やセックス(性と性交)の問題に対して、日本人の意識がどのように移り変わってきたか、といった点にも目配せがきいている。たぶん、その件に関して、小谷野個人の現在の見解がもっともよく現れているのは、昭和40年代の瀬戸内晴美(瀬戸内寂聴)に触れながら書かれた、次の箇所だろう。

 明治以降、人々は恋愛結婚に憧れてきたが、たとえ恋愛結婚をしても、その情熱はいずれ冷めてゆく。だが、だから不義の関係こそが純粋なのだと考えるのも、強がりであって、女は強く、男は弱く、そうした関係に不安を感じる。結局のところ、この時期以降、ただこうした認識が広まることだけが恋愛思想史なのであって、後はせいぜい、愛情があれば結婚を予定していなくてもセックスをしてもいいのか、とか、愛情がなくても「一杯の水」で渇きを満たすようにセックスしてもいいのか、とかいった問題が残るだけなのである。 P276

 これは『片思いの発見』のなかに収められた「恋、倫理、文学」で〈果たして人間が絶対者のごときものを措定せずに生きていけるのか〉〈ひとは無意味な世界に耐えられずに絶対者を措定しようとするものなのである。それが、ひとによっては「恋」として、つまり恋の対象の絶対化として現れるのである。三島由紀夫のような人間にとっては、その対象は天皇であり、その心意は「恋闕」と呼ばれた〉として、恋愛が、宗教や政治的なイデオロギーと同様に、ある種の傾向でしかないこと(だからこそ重要でもありうること)を指摘したことの、さらなる延長線上にあるものである。そして、それは多少おおげさにいえば、現代を生きる我々の寄る辺なさ、生きる上での困難さをも射程に捉えているような感じがするのだ。

 話がずれたが、全編を通して、(恋愛のみならず大衆文学史的にも)とても実りの多い内容だと思う。終盤、90年代以降については、やや物足りないような気がしないでもないが、そこいらへんは、小谷野のべつの著書にあたれば十分に読めるので、不満とするのは贅沢というものだろう(個人的には『恋愛の超克』がお薦めである)。

 『俺も女を泣かせてみたい』についての文章→こちら
 『すばらしき愚民社会』についての文章→こちら
 『評論家入門 清貧でもいいから物書きになりたい人』についての文章→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書。
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