
文庫版『猛スピードで母は』の解説で、井坂洋子が〈私は何も知らず、この長嶋有というのは女性だろうと思った〉といっている。その感覚はわからなくもない。女性の内面がよく書けているということではなくて、文体のやわらかさや、登場人物の持っている間が、なんとなく、それらしいのだ。ふつうに捉えるのであれば、短所であってもおかしくないような、ユルさやズルさやダラしなさが、長嶋有の場合、どこかチャーミングな印象となって現れている。男性視点のものはそうでもないのだが、女性や子供が主人公のものからは、とくにそう感じられる。ここには、表題作を含めた三編が収められている。シークレット・トラック的な「二人のデート」はともかく、「泣かない女はいない」と「センスなし」のふたつは、人間関係のうまくない状況に置かれた女性を扱っている。話の筋だけみれば、どちらも他愛ない、劇的なドラマがあるわけでもなく、とりたてて過剰なアレンジも施されていない、ふつうの日々の描写である。それなのに、なぜか、ふつふつと湧くエモーションがある。心変わりという、誰にでも起こりうるが、しかし仕組みのよくわからない曖昧な出来事を、厳密に定義するのではなくて、まるで無造作なパス・ボールみたいに放る、そういう気安さが、心のどっかに引っかかるのだと思う。