ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年10月27日
 〈お袋は / 殺し屋が人を統べる事を / 愚かと断じていた / 殺しは何も生まない / それを解った上で殺しに徹するのが / プロの殺し屋だ / てめえらが徒党を組み / たかが殺しに意義を見出そうとした所で / 殺しは殺しでしか無い / その自覚があるかどうかが / てめえら組織(マフィア)と / 殺人業者(ジャッカル)の違いだ / オレは / ジャッカルとして生き / ジャッカルとして死ぬ〉主人公を動かすこうした理念、つまり、他者を殺害するさいに余計なイデオロギーを持ち込まない、シンプルな行動原理が、そのままこの『JACKALS(ジャッカル)』(原作・村田真哉:作画・金炳進)というマンガの枠組みを支え、一対一のバトルにおける圧倒的なテンションの高まりを促している。シセロシティの北半分を牛耳る「ガブリエラ」の構成員を敗北させたがために、不利な条件のもと、組織から送り込まれた強力な刺客と敵対することとなってしまったニコルであったが、はからずも賞金稼ぎを名乗るフォアとの共同戦線を張ることで、対等に渡り合うところまで持ち込むのであった。というのが前巻からのおおまかな流れであるけれども、「ガブリエラ」からの刺客が〈ジャッカル!! 金のためなら仲間の腐肉を喰らうような / お前等には解るまい!! 我等には大義がある / そのために命を賭す〉と仇討ちに臨む覚悟を述べるように、ふつう正当性と呼ばれるものは、ニコルとフォアの主人公サイドではなくて、報復する「ガブリエラ」の側にあるといってよい。双方ともに社会的な倫理の外に立つのであれば、なおのことだ。が、しかし、それというのはもちろん、他者を殺めることに大義を求める場合の話で、裏を返すと、殺害の責任が組織化されたイデオロギーに委ねることで、当の殺し屋は、相手を抹殺できるかできないか以外のすべての責任を、免除される。要するに、いち個人としての責任が消去されてしまうわけである。このことの問題を、いちばんはじめに引いた〈てめえらが徒党を組み / たかが殺しに意義を見出そうとした所で / 殺しは殺しでしか無い / その自覚があるかどうか〉といった言葉は、指し、貫いている。とはいえ、そのような問答による精神戦が、この作品の核なのではない。そうではなく、〈それを解った上で殺しに徹するのが / プロの殺し屋だ〉とする技術的な攻防を、同等に、テクニカルに描いてみせることで、ひとかどの興奮を作りあげているのである。

 1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(06年)
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