ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2005年03月25日
 嗤う日本の「ナショナリズム」

 結びのあたりで〈本書では (中略) 私なりの診断(症歴分析)を示したつもりだ〉とあって、そのしばらくあとに〈いや、本当に処方箋を必要としているのは、じつは、医師(のつもりでいる人びと)のほうなのかもしれない……〉とあるので、思わず吹き出してしまった。おいおいおい、ここまで講釈をぶっといて、そんなオチはないだろう、という感じである。それというのは、もしかしたら著者なりのアイロニーなのであって、対して読み手は笑うのではなくて、嗤わなければならないのかもしれないけれど、ちょっとばかり高度すぎるのか、ふつうに大爆笑してしまった。申し訳ない。

 それはそれとして。北田暁大の文章は、わかりづらい、というか、読み難い、というのが、僕の印象であるが、これはまあ、そのなかでも読み易いほうなのではないだろうか。論旨を大雑把に切り出すのであれば、人々は基本的に形式あるいはシステムに放り込まれている、そして、その形式あるいはシステムを駆動させているものは何かといえば、じつは人々の欲望自体なのであり、そのような営みにおいては、60年代に起こった「反省」という出来事と、いま現在、つまり00年代における「アイロニー」とは、無縁ではない、じつは深く関連している、という風になるだろう。が、しかし、「あとがき」にあるように、ある種の80年代論として見てしまっても、べつだん不都合はない。

 全体の流れにおいて、第一章が60年代、第二章が70年代、第三章が80年代、そして第四章がポスト80年代(90年代というディケイドではけっしてない)ということからも、本書を占める80年代のウェイトの大きさは、伺える。で、まあ、80年代に育まれたものとは何かといえば、ここでは「純粋テレビ」と呼ばれている、テレビ(メディア)のなかにツッコミが存在するのではなくて、外側に位置する視聴者がツッコミを入れる、そのことによってテレビ(メディア)の内部に視聴者が取り込まれる、つまり、テレビ(メディア)の外部が消去される、ということである。そこには「世界と自己とのあいだに距離を置き続けるというポジショニング」であるところの「アイロニー」が横たわっている、そして「アイロニー」は、「世界と自己の関係の問い直し」である「反省」のサブ・カテゴリーなのだ、と北田はいう。

 なぜ「アイロニー」が「反省」のサブ・カテゴリーになるのか。それは、はじめ60年代の「反省」への抵抗として現れたからである。あくまでも「アイロニー」は、「反省」に関する二次的なものなのだ。そうした「アイロニー」は、やがて、つねに前ディケイドを乗り越えるための手段として機能しはじめることになる。70年代以降は、そのような構造の上に成り立っている。そうして数度繰り返された反復のなかで、もちろん「純粋テレビ」を経たことも含めて、「アイロニー」の質は変容し、手段ではなく、目的にまでなってしまったのがポスト80年代なのだ。では、「アイロニー」が目的化されると、どのようなことが起こるか。本来であるならば相反するようなふたつの素養、シニシズムとロマン主義の共存した、嗤いが起きるのだ。というのが、たぶん本書で言わんとしていることである。けれど、そこらへんがじつに入り組んでいてややこしい。

 それはどうしてか、個人的にちょっとだけ考えてみたんだけれど、やっぱり90年代と00年代をポスト80年代として一緒くたにしちゃったのがマズかったんじゃないかな。というのも、これを読む限りでは、絶対に80年代はそのまま、プレ・ポスト80年代にはならないわけで、だったらプレ・ポスト80年代として90年代は、00年代とは区別され、ちゃんと紹介されてしかるべきだった、と思うのだ。


posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書。
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバック
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。