ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年10月16日
 一、二、三、死、今日を生きよう!成田参拝

 ここ最近の、笙野頼子が書くメタ私小説ふうな作品群のなかにあって、この『一、二、三、死、今日を生きよう! 成田参拝』は、わりとダウナー系の内容になっており、全部で四つの篇が収められているのだけれど、そのうちでも〈なぜだ! 十一月の六日に自分が死ぬ事に決まってしまっていた〉という書き出しと〈十一月の六日、死を免れた〉という書き出しとが直截の連続性を示す、「一、二、三、死、今日を生きよう!」と「語、録、七、八、苦を越えて行こう」がとくに暗たく思えるのは、〈私〉という語り手の一進一退の攻防が、そこでは、わずかに敗北を背後霊のように背負ってしまっている、と見えるからではないだろうか。あるいはその、敗北の背後霊こそが、それぞれの篇の前後に置かれている「成田参拝」と「羽田発小樽着、苦の内の自由」の内部で、個人的な祈りを誘発している。ここでの一人称が見、語っているのは、政治的な闘争としての「成田」ではなくて、自我や内面と他者や社会とが、緊張のなかでせめぎあう場としての「成田」なのである。〈人は所有によって内面の苦悩を抱え時にはその苦悩を救うために出家までして、既に獲得してしまった内面を守ろうとする。自我とは土地所有によって始まった心の動きである(P188)〉という考えに、共振するがゆえに、〈私〉は、「成田」という土地回りにおける組織と個人の諍いに、自分が抱えるテーマ、ときに彼女の自我や内面の投影された神や水晶や猫たちとタコグルメや評論家等々との論争となり現れるそれ、と共通したものを感じとるのだ。が、正直なところ、そうして成り立つ語り口と取材対象との(あいだにあるべきだと考え、ロジカルな説得力を見るとしたら)客観的な距離が、ところどころで破綻しているようにも受けとれる。

 「この街に、妻がいる」について→こちら
 『だいにっほん、おんたこめいわく史』について→こちら
 『絶叫師タコグルメと百人の「普通」の男』について→こちら
 『徹底抗戦! 文士の森 実録純文学闘争十四年史』について→こちら
 『片付けない作家と西の天狗』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(06年)
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