ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年10月12日
 『文學界』11月号掲載。『海行き』という小説は、『風化する女』で第102回文學界新人賞をとった木村紅美によって、書かれている。ところで僕という読み手は、小説のなかに、サブ・カルチャーにおけるスノッブな知識というか、いわゆるサブカルふうの固有名や薀蓄などが出てくると、なんだか気恥ずかしいというか、居たたまれなくなるというか、書き手の厚顔ぶりにあてられた気がして、作品を一段階か二段階低く見積もってしまいたくなるタイプなのだが、それでこの『海行き』でも、下北沢にわざわざ通う大学生がゴダールだとか澁澤龍彦だとかヴェルヴェット・アンダーグラウンドだとか言っていたりするのだけれど、だが全体を俯瞰してみればわかるとおり、そのような紋切り型ともいえる、モラトリアムの、ある種特権的な自意識は、物語の内部で相対化されるために、ひとつの極として、あえて提示されているものに他ならず、語り手である〈私〉の実感は、たとえば深川めし弁当や新鮮なうにや手巻き寿司のほうへ、そして〈サラちゃんとは、卒業後もずっと定期的に会っているのだから、彼女の目に映る私は、日々少しずつ肉がついていき、その積み重ねが十五キロあるわけで、いきなり数字だけ言われてもぴんとこないのは当たりまえだろう〉という体型や、〈サラちゃんとも譲くんとも、好きなだけいっしょにいられたときは、半分惰性的、みたいな気がしていたけれど、めったにそろわなくなったいまとなっては、あれは、何て贅沢な時間だったのだろう、と感じられる。でも戻りたいとは思わない〉といった言い切りのほうへとかかっている。大学時代には仲のよかった男友だちのところに、卒業後6年経ってから、ふたりの女性がひさびさに会いに行く。というのが大まかな筋で、それと並行しつつ、3人がいっしょに過ごした頃のことが振り返られる。そうやって小説のかたちはつくられているわけだが、〈私〉のエモーションは、現在からしてみればまだ近過去でしかない程度の昔が、しかし遠く、横たわるわずかばかりの歳月が、しかし長く、つまりはそのような距離感へと宿らされており、それが、旧友たちとのやり取りのあいだで、ふっと消える瞬間に、今このときの尊さは光のように見え、近未来にさびしさの影を映しながら、そこからさらに先の未来へとあかるく伸びながら、〈私〉の胸中を、あたらしく書き換えるのである。

 『風化する女』について→こちら


posted by もりた | Comment(1) | TrackBack(0) | 読書(06年)
この記事へのコメント
幸せの一歩手前的作品。

新作『春待ち海岸カルナヴァル』出ました。
けっこうおもしろいと思います。

人気出てきたのか、木村さんご自身を解説する
記事も見つけました。
http://www.birthday-energy.co.jp
本来は主婦(肝っ玉かあさん、って)がお似合いみたい、
だけど快しとしない性格だから、作家さんなんですって。

東洋史観ってこんな事まで分かるんですね。
視点が違うとオモシロイです。
Posted by 哺乳類 at 2012年01月10日 23:07
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