ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2012年02月14日
 どのように挫折を描くか。あるいはどのように挫折からの回復を描くか。それはおそらく00年代後半のヤンキー・マンガに顕著な問題だったのではないか。こう考えられるとき、柳内大樹の『ギャングキング』におけるジミーのあの、当初のスケールを失念したかのようなしょぼくれ具合にも説明がつくのである。無論、その問題は、たとえば高橋ヒロシの『QP』や田中宏の『莫逆家族』で社会人を対象としていたものが、山本隆一郎の『ゴールド』を経、再び学園を舞台とする不良少年の物語へと移し換えられた結果なのであって、以上をジャンル的な変遷としてとらえることができるだろう。

 さしあたり、奥嶋ひろまさの『ランチキ』などもその延長線上に位置させることが可能だと思う。挫折。挫折。挫折。ここ数巻に渡り、いやもしかすれば序盤の段階より主人公である鹿野乱吉を見舞ってきたのは、当人の自信をことごとく挫くほどの躓きであった。周囲から期待されないことに反発するも、自分自身の期待を自分自身で裏切ってしまうという躓きである。相応に悩み、苦しみ、ようやく提出したはずの解答が間違っているとされるのはキツい。こうしたキツさを、結果的にだが、乱吉は引き受けざるをえないのであって、それが物語の中心的な活躍を実現するのとは別の役割を彼に与えている。主人公であるにもかかわらず、だ。

 この手のジャンルでは、イケイケ型の主人公が無茶無謀をしたり、成り上がり、作品の世界=学園や地域のなかで一目置かれていくのが常道だけれど、『ランチキ』の場合、いくらかそこをずれてしまっているところがあって、確かに個々の展開と描写には、こちらの鼻息をふんふん荒くさせるものがあるのだったが、ストーリーのレベルでは、高まったテンションが、ぐっとガッツ・ポーズを取らせる段階にまで跳ねていかない。最高潮に達しそうだぞ、という手前で乱吉が躓くためである。

 反面、無二の親友であるキム(金田鉄雄)が、ケンカの強さと人柄を買われ、校内での地位を固めていくのが、乱吉の立場からすると、せつない。物語の当初はてっきり、歴代のヤンキー・マンガにおける名コンビみたいに、乱吉とキムがナイスなコンビネーションで八面六臂の、それこそ物語の中心的な活躍な果たすものだと予想されたのだが、案外そうはなっていないのである。むしろ、パートナーであったはずのキムとの差が大きく開いていくにつれて、おまえなんでそのポジションにいるの、的に主人公としての乱吉の立場は危うくなってしまう。がゆえに、彼の存在はフラストレーションから自由になれないのだし、作品を前にしてある種のカタルシス作用が弱いと感じられるのも同じ理由によっている。

 しかしながらその、フラストレーション=ハッスルのむなしさこそが、現時点で『ランチキ』の、最大のアドヴァンテージたりえているのもまた事実だ。どれだけ手を伸ばそうが何者にもなれない。いまだ何者にもなれずにいる。それを強く思い知らされる。このような挫折は、何も不良少年に特有のものではないだろう。思春期ならではの光景を、根拠のない全能感ではなく、ア・プリオリな不全性を通じ、切り出すことで、挫折という普遍的な問題の、とくに皮肉めいた仕打ちが、エンターテイメント上の「喩え」として、よく生かされている。

 ラストのカットで乱吉の見せる表情が痛切な、あまりにも痛切な8巻である。キムと距離を置き、同級生たちのあいだで孤立してしまった乱吉は、狂犬のごとくおそれられる2年の手呂と関わりを持つこととなる。降威高校のトップである3年の椿屋は、乱吉と手呂が手を組み、次々と他校にケンカを売るのを静観するのだったが、キムを盛り立てていこうとする五島たち1年の乱吉に対する風当たりは強くなるばかり。緊張が高まるなか、椿屋は最後のタイマンの相手にとある人物を指名する。それはつまり、椿屋が去った後の降威高校を取り仕切るということでもある。

 果たして指名されたのは誰か。こじれてしまった関係を乗り越え、キムと乱吉が再びコンビを組むことはあるのか。主人公の挫折に強調線を引き続ける物語に更なる風雲急が告げられた。

 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(2012)
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