ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年10月09日
 『新潮』11月号掲載。舞城王太郎の、「ディスコ探偵水曜日」の、第三部「解決と「○ん○ ん」」の6パートと7パート目、〈第三回〉である。一回の分量が少なくなって、一場面ずつしか話が進んでいかないので、リアルタイムで掲載を追う読み方だと、ややもどかしい展開が続く。〈人間の死がパチンで終わりなら、肉体を離れた魂の活動なんてなかったなら、桜月の怯えも梢のトラブルもなかったはずなのだ。パンダラヴァーの事件もなかっただろうし、パインハウスの事件は起こったかもしれないが、俺も梢も巻き込まれずに済んだはずなのだ。厄介な生き物……と言うか死に物だぜ、人間〉そのようなわけで、パインハウスにおける探偵たちの推理というか御託というか屁理屈は、懲りず繰り返され、おそらくは、また誰かが死ぬ、登場人物である水星Cの言葉を借りれば「あ、阿呆どもが。お前らがくっちゃべって時間稼ぎしてる間に、もう一人死ぬぞ」という次第になるのだろう。今回、読んでいて単純に思ったのは、これが、読み手を小説の内部に引き込むようなかたちでつくられた作品ではなくて、たとえば名探偵たちの発言は、小説の外部にいる読み手に対してのメタ活字になっているのだが、しかしそれは、あくまでも小説の内部に存在する他の登場人物たちへの働きかけとしてしか機能していない、したがって読み手の、作品に対する位置は、いち傍観者に過ぎないのだけれども、じつはそのことが翻って〈名探偵たちは自分の推理を構築するためにいろんな情報を取捨選択したはずだが、捨てられた方の情報を俺はまだ知らない〉語り手であるところの〈俺〉イコール・ディスコの立場と、読み手の立場とを近しくさせている、ということであった。すくなくともディスコは、パインハウスに到着してから、彼自身がいうとおり〈既に始まってた推理合戦をぼけっと聞いてただけ〉なのであり、水星Cからは、逃げている、と指摘される。要するに、能動的に、活発に、事件へと介入していかない。その介入していかない、いけないことのジレンマが、最初に書いたような、こちらの、断片にしか触れられない、もどかしさと重なっている。

 「第三部 解決と「○ん○ん」〈第二回〉」について→こちら
 「第三部 解決と「○ん○ん」〈第一回〉」について→こちら
 「第二部 ザ・パインハウス・デッド」について→こちら
 「第一部 梢」について→こちら

・その他舞城王太郎に関する文章
 「重たさ」について→こちら
 「喜びは鳥になる。」について→こちら
 「SPEEDBOY!」について→こちら
 『みんな元気。』について→こちら
 「A DRAGON 少女(ドラゴンガール)」について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(06年)
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