ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年10月08日
 『en-taxi[エンタクシー]』VOL.15掲載。このところの生田紗代の作品は、どこか暗い、と感じられる。ナイーヴで多感な思春期のような暗さ、しかしナイーヴで多感な思春期そのものではない暗さ、である。たとえば福嶋亮太は、『文學界』10月号の「新人小説評」のなかで、生田の『彼女のみる夢』を指し、〈ほとんど中学生レベルの認識〉といっているけれども、僕の考えをいえば、それは、作者が自身の自意識をそのまま放り投げた結果そうなった、というのではなくて、わざわざそのようなかたちに小説をつくっているのではないか、といったふうに読めなくもなく、その自覚された部分に、なにかしらかのエモーションが込められていると感じられるのだった。たしかに、この「靴の下の墓標」における認識もまた〈世界は僕を拒絶していた〉〈世界は、相変わらず僕を拒絶していた〉という具合に、幼い。が、そうした幼さが、同時に〈僕〉という人物の生きにくさを代弁しているのである。「靴の下の墓標」は、「ハビタブル・ゾーン」に続く連作の一部で、「ハビタブル・ゾーン」からの流れでみればわかるとおり、連作自体は、高校時代に『進路研究クラブ』という、要するに文系的なマイノリティが強制的に組み込まれるクラブ活動で、けっして明るくはない青春を過ごした4人の男女の数年後、成人してからの姿を捉まえている。彼や彼女らはみな一様に、他人との関係に豊かさを見出す能力が高くなく、それは過去も現在も変わらない。というのは、結局のところ、彼や彼女らが、自意識だけはごろんとあり、そして他者のいない世界の住人だからだろう。そのうちのひとりであり、ここでの語り手であるところの堀田悠仁は、中学校の教師をやっているが、〈教師の仕事は好きではなかった〉〈僕は教師の仕事ではなく、生徒のほうが嫌いなのかもしれない〉と思うほど、そうした役割に対して価値を見出しておらず、また、自分の家族に関しては嫌悪しかなく、だから一人暮らしをするためだけの給料を得るために、嫌な仕事でもつとめているのだし、友人や異性への関心も乏しい。だが、この一個の自意識は、あくまでもこの小説の語り手という限定されたレベルにおいてのみ、固有なものでしかありえないのは、それこそ「ハビタブル・ゾーン」の原かの子にとっての、堀田悠仁は、いつも少女マンガを読んでいる男子以上の印象を持っていなかったことからも明らかである。その、原かの子の、堀田悠仁に向けた無関心は、ここでも回想のなかに反復されている。つまり、他者のいない世界で、同時に〈僕〉も、誰かの他者ですらない、なかった、そして今でもやはり、ない。ない、という空漠が、彼の〈足下の下深くに、墓標の存在を感じ〉させる。

 連作第1回「ハビタブル・ゾーン」について→こちら

・その他生田紗代の作品に関する文章
 『彼女のみる夢』について→こちら
 「なつのけむり」について→こちら
 「私の娘」について→こちら
 「雲をつくる」について→こちら
 「なすがままに」について→こちら
 「まぼろし」について→こちら
 「ぬかるみに注意」について→こちら
 「十八階ヴィジョン」について→こちら
 『タイムカプセル』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(06年)
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