ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年10月02日
 桜ハウス

 小谷野敦は今でも藤堂志津子を読んでいるのだろうか、ということが気にかかるのは、じつは僕が藤堂を読むようになったのは、以前に小谷野が褒めていたのを入り口にしたからで、その後、文庫になっているものはほとんど揃えてしまった(ちなみに僕は『人形を捨てる』を推す。いやまあエッセイ集なのだが、はっきりいって、その内容は凡百の私小説を軽く圧倒しているのだ)。さておき。藤堂の新刊『桜ハウス』は、4人の女性が10年の歳月を通じ、培ってきた繋がりを、その10年間ではなくて、その10年後を描くことで、中年期以降における人生のおかしみとかなしみを捉まえた、そういう連作小説である。蝶子が36歳のとき、亡くなった伯母から遺産として譲り受けた一軒家の二階を、他人に間貸しするさい、住居人募集の面接で選ばれたのが、31歳の遠望子と26歳の綾音、それから21歳の真咲だった。そうして「桜ハウス」と名付けられたそこで、ともに暮らした4人であったが、3年後に遠望子と真咲が出て行く、それから〈こんなふうに四人がここにそろうのは、かれこれ七年ぶりです。個別には電話しあったり、そこで会ったりもしてたのに、なぜか、ここで一堂に会するチャンスはずっとありませんでした。これも別に理由はなくて。でも、きょうの再会をきっかけに、また親しくおつきあいできますように〉という再会を経て、つまり蝶子が46歳、遠望子が41歳、綾音が36歳、いちばん若い真咲でさえ31歳になってからの、彼女たちの交流が、いくつかのイベントとともに、四つの短めの物語として綴られてゆく。北上次郎は、『小説すばる』10月号の書評欄で、この『桜ハウス』を評して〈藤堂志津子の最近の作品には、中年女性のひりひりとした焦燥感と孤独をモチーフにするものが少なくない〉のだが〈今回は違〉い、王道パターンの友情小説だといっているが、たしかにそのとおりで、藤堂の近作中では、かなり明るく楽しい内容になっている、とは思うのだけれども、〈中年女性のひりひりとした焦燥感と孤独〉がまったく漂白されてしまっているかというと、そうではなく、随所でそれは、登場人物たちのエモーションを際だたせる効果をはたしている。たとえば〈十年前の私の最大の悩みは、つねに恋愛だった。いまの私にその悩みはない〉という蝶子にとって、〈もうここ何年も私が夢中になることって、おいしいものを食べることなの〉だが、結果、それが食に対する異様な執着、あたかも依存か中毒のようになっており、〈十代の若者ならばまだしも、四十代なかばになって自分の食欲をコントロールできないのは、どう考えても恥ずかしいことだ〉と思い、誰にもそのことを打ち明けられずにいる。そうした悩みが、さりげなく徹底されることで、〈平均寿命が八十歳をこえた高齢化社会のいま、いつまでも、はてしなく若い気分でいることが美徳とされているらしい〉現代の空気がじつはシビアであり、そのなかで自然を振る舞わなければならない、女性であることの困難が、深く掘り下げられている。


posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(06年)
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