ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2012年01月14日
 新潮 2012年 02月号 [雑誌]

 『新潮』2月号掲載。ここ最近、文芸誌の類に目を通していると震災後の日常を小説の舞台に使っているものが、いや確かに増えた。必ずしも直接的な被害を題材にしているわけではないのだったが、作中人物の心境に、あの体験が、部分的にであれ、紛れ込んでいる様子なのである。そりゃそうだろう。そうした在り方こそが、我々の現在なのであり、生活なのであって、リアリティなのだから、とは思う。しかしながらその大半に対し、どことなく距離を置きたくなってしまうのは、いくらかパターン化された驚きを導入したにすぎない以上の成果が見られないためだ。この場合の驚きとは、大まかに二種類ある。震災を経たことで変わってしまった自分への驚きか。あるいは逆に震災を経ても変わらなかった自分への驚きか。前者であれ後者であれ、デリケートに胸を痛んでみせるのは、作者の誠実さなのか。それとも単なるクリシェでしかないのかどうか。技法の面ではっきりしないものが少なくはない。さて本題は佐藤友哉の『今まで通り』ということになる。

 佐藤の『今まで通り』もまた、震災後の日常を小説の舞台に使っているのだけれど、おそらく例外的であるのは、上述した驚きがほとんどといっていいほど示されてはいない点だろう。反面、無感動と無関心、すなわちアパシーであることの憂鬱が作品の真ん中にきている。震災について、主人公の感想は〈大きな地震と、それによって原子力発電所が爆発して、放射性物質がばらまかれたというニュースを見ても、なにもなかった。/ 地震はすごかったけれど、すんでしまえばそれだけだし、原発についても、私の住んでいる場所からずいぶんはなれているので、あまり切迫したきもちにはならなかった〉という言葉に尽きる。専業主婦である彼女は、そのかわり、生後半年の赤ん坊と自分の関係に注意を引かれているのである。震災後の状況がどうであろうと『今まで通り』に。それが作品のあらましを担っていく。

 極めて単純化すれば、主人公の姿にはある種のストレスが投影されており、そしてそのストレスは、震災の以前から存在していたのであって、震災がもたらしたストレスよりも大きい。ではそのストレスの正体とは何か。自分と小さな赤ん坊の関係に根差したものだといえるのだが、しかしそれを育児の一語にまでは単純化できないところが、主眼にあたるのだと思う。力の強いと弱いとで対他関係が決定されるのなら、母親である主人公は赤ん坊よりも強い。けれど、赤ん坊を取り巻く社会性よりは遙かに弱い。このとき、本当に赤ん坊を保護しているのは誰なのか。果たして赤ん坊を一個の人格と認められるのか。疑問形になりうる混乱を、決して異常な事態とせず、現代的なミニマリズムのなかに落とし込んでいる。震災後の風景を採用してはいるものの、むしろ金原ひとみの『マザーズ』以降に発表された家族小説として、『新潮』1月号に掲載された舞城王太郎の『やさしナリン』などと並べたい作品だろう。ちなみに『マザーズ』は2010年から2011年にかけて『新潮』に連載されていた小説である。

・その他佐藤友哉に関する文章
 『333のテッペン』について→こちら
 『世界の終わりの終わり』について→こちら
 『1000の小説とバックベアード』について→こちら
 『子供たち怒る怒る怒る』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(2012)
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのTrackBack URL
http://blog.seesaa.jp/tb/246117017